用語集
記事に出てくる言葉のうち、説明なしでは通じないものを集めました。
ここに並んでいるのは、この媒体の記事に実際に出てくる語だけです。記事に出てこない語は載せません。載せると、用語集そのものが典拠のない事実の置き場になるからです。
五十音から
あ行 / か行 / さ行 / た行 / な行 / は行 / ま行 / ら行 / わ行 / その他
時代から
その語が、どの時代の話に出てくるか。
共通
裡書 / 奥書 / 訓読 / 較正暦年代 / 校訂 / 綱文 / 作業仮説 / 膝行 / 抄 / 書目 / 自筆清書本 / 上棟 / 正史 / 拓本 / 津波堆積物 / テフラ / 年縞 / 年輪年代法 / 年輪セルロース酸素同位体比 / ハイドロアイソスタシー / 版本 / 編年体 / ラハール
鎌倉〜室町
古墳・飛鳥
古代・中世
平安・鎌倉
古代
弥生
飛鳥・奈良・平安
中世〜近現代
古墳〜平安並行期
分野から
その語が、何を扱う言葉か。
制度
院政 / 関白 / 郡評論争 / 検非違使 / 除目 / 受禅 / 上皇 / 除書 / 征夷大将軍 / 摂政 / 太政大臣 / 大宰権帥 / 鎮守府 / 配流 / 幕下 / 飛駅 / 陵墓 / 陵墓参考地
祭祀
年代測定
較正暦年代 / テフラ / 年縞 / 年輪年代法 / 年輪セルロース酸素同位体比
道具
研究の作法
儀礼
建築
都市
地形と環境
出土品
植物と食
史料
都城
用語
あ行
院政
記事での言い方:天皇を退いた人が政治をすること/上皇の御所/文化庁も京都市も使う言葉(この日の記録がそう呼んでいるのではない)
天皇の位を退いた上皇が、政治の中心に立つ形をこう呼びます。文化庁は鳥羽殿を「白河・鳥羽・後白河3代上皇の院政の中心舞台となった離宮」と書き、京都市は「院政を始めた白河・鳥羽二代の上皇」と書いています。
★この媒体が到達したのは、院政の「舞台」の史跡指定解説と発掘の記述までです。 誰が何を決めたかという中身には、届いていません。「院政」という言葉を機関の記述で確かめたので使いますが、中身は書いていません。 そして、1086年11月26日の綱文にも、そこに引かれた記録のうち記事が読んだ箇所にも、この語は出てきません(通史⑨)。後の世の呼び名として使います。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
裡書
記事での言い方:『扶桑略記』裡書
紙の裏に書き込まれた注記のことです。「裏書」とも書きます。
★915年の十和田火山の噴火の記録は、この裏の書き込みにあります。 東北大学の博物館は「『扶桑略記』裡書・延喜十五年(915年)七月十三日条には『出羽国言上雨灰高二寸、諸郷農桑枯損之由』と」あると書いています。
★本文と裏の書き込みでは、書かれた事情が違うことがあります。 「『扶桑略記』にこう書いてある」と引くとき、本文か裡書かを添えてください。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期
漆紙文書
記事での言い方:漆で残った紙/兵士についての記録/暦や城に勤務した兵士についての文書
漆を入れた容器のふたとして使われた反故(ほご)の紙が、漆がしみこんだことで腐らずに残ったもの、と一般に説明されます。役所で使い終わった文書が、漆の職人のところで再利用され、そのまま土の中に残った、という説明です。★この説明そのものについては、この媒体はまだ機関の記述に当たっていません。
★木簡と同じで、残そうとして残ったものではない、とされます。 奥州市は、胆沢城の跡から「暦や城に勤務した兵士についての漆紙文書」が出ていると書いています。都から遠く離れた城で、暦が使われ、兵士の記録が付けられていたことが、この紙で分かります。
★ただし、この媒体はまだ、その文書の中身そのものには当たっていません。「出ている」までです。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期
奥書
記事での言い方:巻末の奥書/承徳3年(1099)写
書物や経巻の末尾に、書き写した年や事情などを記した部分です。
★奥書があると、その本が「いつ写されたか」「いつ書かれたか」が分かります。 藤原道長が金峯山に納めた経は、東京国立博物館によれば「巻末の奥書では、「長徳四年」「峯山金」「件第一」の文字が確認できる」ため、998年に書写したと分かります。『将門記』のいま読める最古の写しが1099年と分かるのも、同じ種類の記載によります。
★奥書が示すのは「その写しの年」であって、「本文が書かれた年」ではありません。 『将門記』の1099年は、乱から約160年後の写しの年です。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期
か行
貝塚
食べたあとの貝殻が捨てられ、積み重なった場所です。
貝殻が大事な役割を果たします。 貝殻に含まれるカルシウムで土が酸性でなくなるため、ふつうなら溶けてなくなる骨が残るのです。 魚の骨、獣の骨、そして人の骨も。
だから貝塚は「ゴミ捨て場」であると同時に、その時代の人が何を食べていたかが分かる、数少ない場所になります。千葉市の加曽利貝塚は、貝塚としてはじめて特別史跡になりました。
この語が出てくる記事:同じ言葉で、3つの別のものを測っていた / 3分でわかる|いま平らな土地が、昔から平らだったとは限らない / まず、これだけ|古墳とは何か / 通史② 縄文時代
行き着く論点:縄文時代は、いつ始まったのか / 「古墳時代」という名前は、列島のどこまでの話なのか
環状ブロック群
記事での言い方:石器のかたまりが輪のかたちに並び/輪のかたち
石器のかたまり(ブロック)が、輪のかたちに並んでいる遺構です。後期旧石器時代のものが知られています。
千葉県の墨古沢(すみふるさわ)遺跡では、南北70m×東西60mの輪に石器のかたまりが並び、石器の数は1万点に迫るとされます。長野県の日向林B遺跡では、15か所のかたまりが長径30mの輪をなしていました。
★何のために輪になっているのかは、決まっていません。 文化庁は墨古沢について「動物資源を目的に集まった人々が営み、狩猟具を含む活発な石器製作を行った集落遺跡」と書き、地元の町は「石器を製作、または使用した生活の痕跡だと考えられます」と留保しています。
この語が出てくる記事:通史① 旧石器時代
環状列石(ストーンサークル)
石を輪のかたちに並べた遺構です。縄文時代後期のものが東北地方などで見つかっています。
秋田県の大湯環状列石は、最大径52mと44mの2つの輪からなります。青森県の小牧野遺跡は、中央・内・外の三重で全体の直径が約55mあります。
★何のためのものかについて、書き方が機関によって違います。
- 文化庁の指定解説は、構造だけを記して用途に踏み込みません
- 鹿角市は「『集団墓』であるとともに『祭祀施設』であったと考えられています」
- 世界遺産の公式説明は「祭祀遺跡」と位置づけています
「祭りが行われた」というところまでは断定に近く、「何のための、誰に向けた祈りか」になると、どの機関も留保に切り替わります。
この語が出てくる記事:3分でわかる|縄文人は農耕していたのか / 「夏至の日没を指す」 / 通史② 縄文時代
行き着く論点:大湯環状列石の4点通過直線は、どこを測れば決着するのか
関白
記事での言い方:関白師実/『御堂関白記』
天皇を補佐して政務にあずかる役です。
★この媒体は「摂関政治」という言葉を使っていません。 通史⑧は、道長が摂政・関白になった経緯と「摂関政治」という言葉について「機関の説明に当たっていません」と書き、語を使わないと決めています。
★『御堂関白記』は道長の自筆日記の名です。 京都・陽明文庫が所蔵し、東京国立博物館の解説が「〜によると」の形で引いています。この媒体はその本文にはまだ当たっていません。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
経塚
記事での言い方:経を土に埋めた場所/山に埋めた筒
経典を筒などに入れて土に埋めた場所です。京都国立博物館は、藤原道長が1007年に金峯山に埋めた経筒を「日本で最も古いもの」と書いています。
★この媒体で経塚がいちばん効くのは、「書物」と「地面」が1つの日付で合う例だからです。 筒に刻まれた「寛弘四年八月十一日」、中の経の奥書の「長徳四年」、本人の日記の8月2日出発・11日法要——3つが別々の物に書かれていて、合っています。
★ただし、確かめられたのは「その人が存在し、経を書き、埋めた」ことです。 その人の政治については、経塚は何も言いません。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
屈葬
手足を折り曲げた姿で埋葬することです。縄文時代の墓に多く見られます。
愛知県の吉胡貝塚の文化庁の解説には、屈葬のほかに伸展葬(伸ばした姿)や甕棺葬(土器に納める)の例もあると書かれています。1つの墓地に、複数のやり方が並んでいたことになります。
なぜ折り曲げたのかについては、確かめられた答えがありません。
この語が出てくる記事:通史② 縄文時代
訓読
記事での言い方:日本語で読む/読み下し
漢文を、語順を入れ替えて日本語として読むことです。
★訓読には、読む人の判断が入ります。 どこで文を切るか、どの語がどこに掛かるか——これが変わると、意味が変わることがあります。
私たちが日本語で読んでいるものは、原本 → 版本 → 校訂 → 訓読 → 現代語訳という段階を経ています。どの段でも、誰かの判断が入っています。
この語が出てくる記事:金印は、いつから「57年の印」になったのか / 「邪馬台国」は、本にそう書いていない / 通史④ 古墳時代 / 通史⑧ 平安時代 中期
軍記物語
記事での言い方:戦いを語る本/語り物/『平家物語』『保元物語』
合戦を題材にした物語です。歴史書ではなく、文学として書かれ、語られました。
★この媒体は、軍記物語を「その時代の記録」として引いていません。 東京大学史料編纂所の綱文でも、保元の乱の『保元物語』は[参考]として別枠に置かれています。保元の乱を書く材料は、同時代の日記『兵範記』でした。
★『平家物語』は、本文が1つではありません。 国立公文書館は「多くの諸本を生み」と書き、機関の区分では「語り本系」と「読み本系」に大別されます。国が重要文化財に指定した写本は覚一本・長門本・五島美術館本の3本で、いずれも室町時代の写しです。「『平家物語』にこう書かれている」と言うとき、どの系統の本のことかで、話が変わります。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
郡評論争
記事での言い方:「評」から「郡」へ/地方の区画の呼び名
地方の区画を「評(こおり)」と書いていた時期と、「郡」と書く時期があります。どちらがいつなのかが、長く争われていました。
★これは、掘って出た木簡で決着した論争です。 699年の年号を持つ木簡に「評」とあり、701年を境に「郡」へ切り替わることが確認されました。
★文献だけでは決まらなかったものが、物で決まった例です。 そして決まったことで、その文献のほうの信頼度も測れるようになりました。
この語が出てくる記事:荷札は、書き直されない / 通史⑤ 飛鳥時代
削屑
記事での言い方:削り取られた木くず
木の札は、書いて捨てるだけのものではありませんでした。表面を薄く削れば、また書けます。 そのとき出る木くずが削屑で、国宝に指定された平城宮跡の木の札も、文書・荷札や付札・習書や落書と並んで、この削屑が4つの分類のひとつになっています。
★削屑には、消された字が残っています。 消したのは後世の人ではなく、その場にいた当時の人です。
★つまりこれは、同時代の人が消した跡が、消したかたちのまま残っている資料です。 書き上がったものではなく、書き直しの途中が出てくる、という点で珍しいものだとされます。
行き着く論点:「思想史の始まり」は、思想の始まりなのか
検非違使
記事での言い方:検非違使に命令が出ます/前検非違使平兼隆
都の治安と裁判にあたった役所、またはその官人です。
★記事に出てくるのは、命令を受ける側としてです。 1156年7月5日、保元の乱の直前に「武士を都に入れるな」という命令が検非違使に出ています(綱文)。1180年8月17日の綱文には、頼朝が伊豆で殺した相手として「前検非違使平兼隆」の名があります。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
郊祀
記事での言い方:天を祭る儀式/中国式の祭り
都の郊外で天を祭る、中国の皇帝が行っていた儀式です。日本でも行われた記録があります。
★回数が少ないことが、それ自体で情報になります。 日本で実際に行われたと記録されているのは数回で、続く行事にはなりませんでした。
「取り入れた」と「根づいた」は別です。 一度やったことを「制度になった」と読むと、実態より強く見えます。
較正暦年代(cal BP)
記事での言い方:暦の年に直す/補正/較正
炭素の一種を使った年代測定(放射性炭素年代測定)で出てくる数字を、暦の年数に直したものです。
なぜ直す必要があるのか。
測定でまず出てくるのは「炭素の減り方から計算した年数」で、これは暦の年数とずれます。 大気中の炭素の量が時代によって変わっていたためです。そこで、年輪や湖の底の縞など、1年ずつ数えられる記録と突き合わせて補正します。
- yrs BP/14C BP = 補正前の値
- cal BP = 補正後の、暦に直した値(BP は「1950年から数えて何年前か」)
★この2つは混ぜられません。 青森県・大平山元Ⅰ遺跡の土器の例では、補正前が12,680〜13,780年前、補正後が15,320〜16,540年前です。2,000年以上違います。
そして補正に使う表(較正曲線)は改良され続けているので、同じ測定値でも、いつ補正したかで答えが変わります。
この語が出てくる記事:3分でわかる|縄文人は農耕していたのか / 壊滅と継続 / 通史① 旧石器時代 / 通史② 縄文時代
校訂
記事での言い方:字を改める/別の本によって直す
版本のあいだで字が違うとき、どれを本来の字と考えるかを決める作業です。ほかの書物の記述を根拠に、字を改めることもあります。
★校訂は、こっそり行われるものではありません。 きちんとした注釈書には、「この字は、○○という書物によって改めた」と明記されています。
だから読むときは、注も一緒に読むことになります。 本文だけを見ていると、そこが直された箇所だと気づけません。
この語が出てくる記事:「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 「邪馬台国」は、本にそう書いていない / 「厩で生まれた」とは、書いていない / まず、これだけ|聖徳太子とは誰か
行き着く論点:私たちが読んでいる「邪馬台国」は、本にそう書いてあるのか / 平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
綱文
記事での言い方:出来事の概要を1日ずつ短い文にしたもの/前の回で見た綱文/史料編纂所の要約
東京大学史料編纂所が『大日本史料』『史料綜覧』で、歴史上のできごとを年月日の順に並べ、その概要を短い文で示したものです。編纂所自身は『大日本史料』を「年月日の順に従って、歴史上のおもなできごとについて、その概要を短い文章で示し、関連史料を集めたものです」と説明し(大日本史料総合データベースの概要・2026-09-16 取得)、同じ編纂所の MIDOH(データ繋留型編纂支援・資源化データベース)の概要では「「綱文」 歴史事象を簡潔に説明した文章です。」と書いています。 綱文のひとつひとつには、その出来事を書いた史料の名(書目)と、既刊分では史料の本文が付いています。
★綱文は、一次史料の本文ではありません。 編纂所が、各冊の出版当時の研究水準で書いた要約です。この媒体は、綱文を「編纂所がこう要約している」として引き、史料の本文とは区別します。 綱文「橘敏延」と『日本紀略』「橘繁延」のように、要約と本文で人名の字が違うことがあります。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安前期の政変は、書物の外から確かめられるのか / 後三年合戦は、「役」か「合戦」か / 平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
さ行
細石刃
長さ数センチ、幅5mm程度の、小さくて細長い石の刃です。後期旧石器時代の終わりごろに広く使われました。
そのままでは小さすぎて使えません。骨や木の軸に何枚も並べて埋め込み、1本の刃物や槍先として使ったと考えられています。刃が欠けたら、その1枚だけ取り替えられます。
北海道の白滝遺跡群では、この細石刃を作る独特の技法が確認され、「湧別(ゆうべつ)技法」と名付けられました。同遺跡群の出土品1,965点は、2023年に国宝になっています。
この語が出てくる記事:通史① 旧石器時代
作業仮説
記事での言い方:検証のために立てた仮の説/学説が動いている最中
研究者が「これが正しいと決まったわけではないが、検証を進めるために、いったんこう考えてみる」と立てる仮の説です。1099年の南海地震について、歴史地震研究会の会誌の論文は英文要旨で「作業仮説」と呼び、本文で「筆者もその見方を踏襲してきた」と、自分がそれまで従来説の側にいたことを書いています。
★「新しい説が出た」と「新しい説が定まった」は別です。 この媒体は、論文自身が作業仮説と呼んでいるものを、定説として書きません。そして、従来説を退けた、とも書きません。学説が動いている最中である、と書きます。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:1099年の南海地震は、実在したのか
柵
記事での言い方:東北の城/北の城柵(胆沢・志波)/戦いの舞台とされる場所
古代の東北で、朝廷側や在地の勢力が築いた囲いのある拠点をこう呼びます。前期の胆沢城・志波城は「城」、後三年合戦の金沢柵・沼柵は「柵」と書かれますが、この媒体は呼び分けの規則を確かめていません。
★「柵」と書いてあることと、その場所が分かっていることは別です。 横手市は金沢柵・沼柵について「未だにどこにあるか確定されていません」と書き、史跡になっている柵は大鳥井柵だけだとしています。「史跡になるためには、まずその時代の遺構と遺物を発見しなければなりません」——市自身の言葉です。
この語が出てくる記事:通史③ 弥生時代 / 通史④ 古墳時代 / 通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期
行き着く論点:金沢柵と沼柵は、どこにあったのか
三角縁神獣鏡
記事での言い方:銅鏡/鏡
縁の断面が三角形になっていて、神や獣の像を鋳出した銅鏡です。古墳から多く出ています。
★見つかっている面数は、増え続けています。 約330枚とする記述、500面以上とする記述、約600面とする記述が、いずれも公的な解説として並んでいます。古い数字がそのまま流通していることがあるので、数を引くときは、いつの時点の数かを見てください。
★どこで作られたのかは、書き方が割れています。 京都国立博物館は留保をつけ、東京国立博物館は自館の所蔵品について中国製・日本製の別を書いています。同じ種類の鏡について、機関が違えば断定の度合いが違います。
この語が出てくる記事:「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 3分でわかる|「謎の四世紀」 / まず、これだけ|古墳とは何か / 通史③ 弥生時代
行き着く論点:4世紀に、列島で何が作られていたのか / 「思想史の始まり」は、思想の始まりなのか / 平安時代は、いつ終わるのか
膝行
記事での言い方:膝で進んで/膝行して進めた
膝をついたまま進むことです。『吾妻鏡』は1192年7月25日、三浦義澄が除書を頼朝に差し出す場面を「義澄捧持除書、膝行而進之」——義澄は除書を捧げ持ち、膝で進んでそれを差し出した——と書いています。
★「任命された」の一言の裏にある動作が、1つ書かれています。 頼朝は束帯で、西の廊に出ています。この媒体は、その手順を書いた記録があるとき、手順を書きます(用語集「除書」の項)。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
終末期古墳
記事での言い方:前方後円墳が造られなくなったあとの古墳
前方後円墳が造られなくなったあと、7世紀に造られた古墳をこう呼びます。高松塚古墳やキトラ古墳がこれにあたります。
★ここで、時代の名前が2つ重なります。 同じ7世紀が、墓の側から見れば「古墳時代の終わり」、政治の側から見れば「飛鳥時代」です。
★どちらかが間違っているのではありません。何を基準に時代を区切るかが違うだけです。
この語が出てくる記事:通史④ 古墳時代
抄
記事での言い方:編纂所が抜き書きした1条/編纂所が抜いた句/〈○中略〉
史料の本文のうち、編纂所が必要な部分だけを抜き書きしたものです。抜いた部分には〈○中略〉の印が置かれます。通史⑦が読めた『日本三代実録』貞観8年9月22日条は、この形です。
★抄は、全文ではありません。 通史⑦は「他の4人の名も罪状の詳細も、この抄には無く」と書き、通史⑧は『貞信公記』の「御誦経、十寺可行」を「編纂所が抜いた句で、13日の記事の全文ではありません」と書いています。「〜にこう書いてある」と引くとき、全文か抄かを添えてください。
この語が出てくる記事:歴史書は、なぜ滅んだ国のぶんまで残っているのか / 通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安前期の政変は、書物の外から確かめられるのか
書目
記事での言い方:綱文に付いた本/出典の本/この出来事を、どの本が書いているか
東京大学史料編纂所のデータベースで、綱文のひとつひとつに付けられた、その出来事を書いた史料の名です。データベース自身の説明は「「書目」 綱文に記された歴史事象について記述した史料の名称・書誌情報等です。」です。
★書目が挙がっていることと、その本文を読んだことは別です。 通史⑦は、応天門の綱文8条がすべて出典の本として『日本三代実録』を挙げている、までを書き、その本文は9月22日条の抄1条だけを読んでいます。通史⑨は、1185年の壇ノ浦の条に付いた48件を見て、綱文の「安徳天皇崩じ給ひ」の1文が48件のどの本によるのかは、書目からは分からない、と書いています。書目は「どの本が書いているか」の一覧で、「その本にどう書いてあるか」ではありません。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安前期の政変は、書物の外から確かめられるのか
自筆清書本
記事での言い方:信範が晩年に自分で清書した本/本人の清書
日記の書き手本人が、あとから自分の手で清書した本です。京都大学は『兵範記』について「残されているのは日々書き継がれた原本ではなく、信範晩年になっての自筆清書本を含めた転写本である。」と書いています(資料室 S-J020)。
★自筆であることと、日々そのまま書かれたものであることは別です。 通史⑨は、保元の乱の7月11日の記事が「結末を知らない形で書かれています」と書いたうえで、「清書のときに本人が何も改めなかったかどうかは、判定できません」と添えています。「自筆本がある」は、日記の確かさの種類を上げますが、「その日のまま」の保証ではありません。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
除目
記事での言い方:臨時除目/除目を行ひ/任官
官職を任命する朝廷の儀式です。任命の書類は「除書」といいます。
★記事に出てくるのは、2つの除目です。 1159年(平治の乱)、藤原信頼が「除目を行ひ、自ら大臣と為り」——自分で自分を大臣にした、と綱文が書きます。1192年7月12日の「臨時除目」で、源頼朝が征夷大将軍に任じられました。
★除目で任じられた日と、除書が本人に届いた日は別です。 1192年の場合、任命は7月12日、鎌倉の鶴岡八幡宮で除書が渡されたのは25日です(『吾妻鏡』)。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安時代は、いつ終わるのか
受禅
記事での言い方:受禅あらせらる/天皇が退き
前の天皇から位を譲り受けて即位することです。
★記事に出てくるのは、1086年11月26日の綱文「堀河院に於て、受禅あらせらる」です。 同じ日に関白師実が摂政になり、上皇の役所に職員が任命されました。「譲位」を受ける側から見た語です。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
上皇
記事での言い方:上皇/法皇/退いた天皇/上皇の役所
位を退いた天皇のことです。出家した上皇は「法皇」と呼ばれます。
★「院政」という言葉は、1086年11月26日の綱文にも、そこに引かれた記録のうち記事が読んだ箇所にも出てきません。 綱文にあるのは、譲位(受禅)と、摂政の任命と、「上皇院司を補す」——上皇の役所に職員を任命したこと——だけです。「院政の始まり」は後の世の呼び名です。
★上皇の御所は、都の南の鳥羽に造られました。 文化庁は「応徳4年(1087)にまず南殿が造営され」と書きます。その広さは3つの機関で3通りに書かれています(通史⑨)。
★1156年の保元の乱は、鳥羽の法皇が亡くなって9日目に、上皇の側と天皇の側が戦った出来事です。 同時代の日記『兵範記』は、11日の時点で「上皇左府不知行方」——上皇と左大臣の行方はわからない——と書いています。
この語が出てくる記事:「奈良の大仏」は、いつの大仏か / 通史⑨ 平安時代 後期
上棟
記事での言い方:棟を上げる儀式の年/建てた年(建立)/完成の年とは限らない
建物の骨組みを組み上げ、いちばん上の棟木を上げることです。中尊寺は金色堂を「1124年(天治元年)……上棟されました」と書き、岩手県は「天治元年(1124)……建立された」と書いています。
★同じ年を、片方は儀式の語で、片方は完成に近い語で書いています。 上棟の年は、完成の年とは限りません。この媒体は「1124年に上棟」と書き、「完成」とは書きません。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
条坊制
記事での言い方:碁盤の目の都/条坊
都を、南北と東西の道路で碁盤の目に区切る都市の作り方です。中国の都にならったものとされます。
★これは、この時期の変化のなかで、いちばん物として押さえやすいものです。 発掘すれば道路の跡が出るので、文献に頼らずに「あった」と言えます。
それ以前の宮は、天皇が代わるたびに場所が移っていました。 碁盤の目の都は、移らないことを前提にした作りです。そこが断絶として見えます。
この語が出てくる記事:通史⑤ 飛鳥時代 / 通史⑦ 平安時代 前期
行き着く論点:藤原京は、どこまで造られたのか
縄文海進
縄文時代に、海面がいまより高くなって、海が陸の奥まで入り込んだ現象です。
関東平野では、いまの東京の低地から埼玉県まで海(奥東京湾)が入り、大阪平野では上町台地の東側に河内湾という内海が広がりました。内陸で貝塚が見つかるのは、そのためです。
★時期と高さは、機関によって値が違います。
- 日本第四紀学会:約7,000年前、いまより2〜3m高い
- 横浜市の博物館:約6,000年前(縄文前期)、4〜6m高い
差の一部は場所による違い(上のハイドロアイソスタシー)ですが、「7,000年前/6,000年前」「早期/前期/中期」という時期の呼び方のずれは、それでは説明できません。
この語が出てくる記事:3分でわかる|いま平らな土地が、昔から平らだったとは限らない / 通史② 縄文時代 / 通史③ 弥生時代
行き着く論点:縄文海進は、いつ、どれだけだったのか
除書
記事での言い方:任命の書類/官職を授ける書きつけ
官職を任命する儀式(除目)で作られる、任命の書きつけです。1192年、頼朝を征夷大将軍とする除書は、勅使が鎌倉へ持参し、鶴岡八幡宮で三浦義澄が受け取りました。『吾妻鏡』は「義澄捧持除書、膝行而進之」(義澄は除書を捧げ持ち、膝で進んでそれを差し出した)と書いています。
★「任命された」という一言の裏に、書類が都から鎌倉へ運ばれ、誰かが受け取った、という手順があります。 この媒体は、その手順を書いた記録があるとき、手順を書きます。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
征夷大将軍
記事での言い方:頼朝を征夷大将軍と為す/為征夷大将軍
もともとは東北の遠征のために任じられた将軍の職名で、1192年に源頼朝が任じられました。
★1192年7月12日の任命は、朝廷の記録と幕府の記録の両方で読めます。 朝廷側の『公卿補任』は「前権大納言正二位源頼朝、四十六、七月十二日為征夷大将軍」と書き、幕府側の『吾妻鏡』は25日に除書が鎌倉に届いた場面を書きます。
★けれども、それを「幕府の成立」と呼ぶかどうかは、別の問いです。 文化庁は「12世紀末に源頼朝が幕府を開き」と書いて年を1つにせず、神奈川県立歴史博物館は任官の事実だけを書きます。この媒体は日付を書き、定義は決めていません。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安時代は、いつ終わるのか
正史
記事での言い方:中国の史書/史書/官撰の正史
中国の歴代王朝が、前の王朝について公式にまとめた歴史書のことです。『三国志』『晋書』『宋書』などがこれにあたります。
★日本でも、朝廷が公式に歴史書を編んでいます。『日本書紀』『続日本紀』がその最初の2つで、文化庁は『続日本紀』を「官撰の正史」と呼んでいます。「官撰」は、朝廷が編んだ、という意味です。
★気をつけたいのは、書かれた時期です。 たとえば『晋書』は7世紀(唐)に編まれたもので、扱っている出来事からかなり後に書かれています。 出来事と記録のあいだに何年あるかは、読むときの前提になります。
★そして、載っていないことは「起きなかった」を意味しません。 ある時期に倭の記事が現れないことがありますが、同じ書物に、同じ時期の別の国の記事は載っています。
この語が出てくる記事:金印は、いつから「57年の印」になったのか / 「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 3分でわかる|「謎の四世紀」 / 「邪馬台国」は、本にそう書いていない
行き着く論点:中国の史書から倭が消えた約150年は、なぜ空白なのか / 「謎の四世紀」という呼び名は、いつ作られたのか / 4世紀に、列島で何が作られていたのか
摂政
記事での言い方:関白師実を摂政となす/摂政の始まり
天皇に代わって政務をとる役です。
★この媒体の記事で、この語が綱文の言葉として出てくるのは、1086年11月26日の綱文「関白師実を摂政となす」です。 堀河天皇の受禅と同じ日に、それまで関白だった藤原師実が摂政になっています。
★「摂政の始まり」とされる866年には、記事はまだ当たっていません。 通史⑦は「摂政の始まり(866年)」を「綱文にも届いていない」事項として残しています。いつから誰が摂政と呼ばれたか、この媒体はまだ自分で確かめていません。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安前期の政変は、書物の外から確かめられるのか
接合資料
割れた石の破片を1つずつつなぎ直して、元の石のかたちに戻したものです。
なぜそんなことをするのか。戻すと、石器を作った手順が見えるからです。 どこから割り始め、どの順に打ち欠いたか。そして足りない破片は、持ち去られた石器ということになります。
北海道の白滝遺跡群の国宝の出土品には、この接合資料が含まれています。
この語が出てくる記事:通史① 旧石器時代
前方後円墳
記事での言い方:鍵穴のような形の古墳/古墳
上から見ると円と台形をつないだ形をした墓です。この形の墓が作られた時期を、いまは「古墳時代」と呼んでいます。
★つまり、時代の名前が墓の名前になっています。 そしてこの形の墓は、北は岩手、南は鹿児島までしか来ていません。北海道と南西諸島には来ていません。
北海道の公的な説明にこの時代の名前は出てこず、続縄文文化ののち擦文文化が続いたと書かれています。沖縄県は複数の編年を並べたまま掲示しています。「3〜7世紀の日本は古墳時代」と書くと、来ていない場所まで同じ名前で塗ることになります。
★大きさの数字にも注意が要ります。 同じ古墳の墳丘長や高さが、国と自治体で違う値で公表されていることがあります。どちらかが誤りとは限らず、測っている場所と時点が違う可能性があります。
この語が出てくる記事:弥生時代、人は入れ替わったのか / 3分でわかる|「日本人のルーツ」という問いは、なぜ答えが出ないのか / 「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 3分でわかる|「謎の四世紀」
行き着く論点:現代日本人の「第三の層」とは何か / 古墳時代は、いつ始まり、いつ終わるのか / 「古墳時代」という名前は、列島のどこまでの話なのか
た行
拓本
記事での言い方:石に刻まれた文字を写したもの/石灰拓本
石碑などに刻まれた文字を、紙を当てて写し取ったものです。
★写し取り方によって、読める文字が変わることがあります。 碑面に石灰を塗ってから採った拓本を「石灰拓本」と呼び、そう明記して展示している博物館があります。
つまり、読んでいる文字そのものに留保が付いている場合があります。 同じ碑の同じ箇所で、公表されている釈文が一字違うこともあります。「碑にはこう書いてある」ではなく「誰がどう読んだか」で見るのが安全です。
この語が出てくる記事:「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 通史④ 古墳時代
太政大臣
記事での言い方:内大臣清盛を太政大臣に/前太政大臣/太閤
朝廷の官職のいちばん上の位です。
★記事に出てくるのは、2人です。 1167年(仁安2年)2月11日の綱文は「内大臣清盛を太政大臣に」任じたと書き、同じ月の25日に清盛は厳島に詣でています。藤原道長は、1018年の『小右記』の記事に「前太政大臣第三娘」(前の太政大臣の三女)の形で出てきます。
★同じ記事は道長を「太閤」とも呼んでいます。 「太閤招呼下官云」——太閤が私を呼んで言った。記事の中で同じ人が官職名と別の呼び名で出てくることがあります。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
大宰権帥
記事での言い方:大宰権帥に左遷/大宰権帥に貶謫/大宰員外帥
九州の大宰府の長官(帥)に準じる官職の名です。
★この媒体の記事では、都を追われた人の行き先として出てきます。 901年、菅原道真が「太宰権帥に左遷」されたと国立公文書館の解説にあり、969年(安和の変)、左大臣源高明が「大宰権帥に貶謫」されたと綱文にあります。
★同じ出来事で、綱文と歴史書の本文の官名が違います。 安和の変の綱文は「大宰権帥」、歴史書『日本紀略』の本文は「大宰員外帥」と書いています。「権」と「員外」——定員の外に置かれた官という意味では同じ向きの語ですが、字は違います。 引くときは、どちらの本の語かを添えてください。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期
籌木
記事での言い方:細い木の棒
紙が高価だった時代に、用を足したあとに使われた細い木の棒です。長さは十数センチほどのものが多いとされます。
★これが発掘の現場で重宝されるのは、それ自体が便所の目印になるからです。 木の棒がまとまって出て、土に寄生虫の卵の殻が大量に含まれていれば、そこは便所か、し尿を捨てた穴だったと判断されます。
★汚物そのものは形が残りません。 残るのは、拭くのに使った木と、体の中にいた虫の卵です。捨てたものが、当時の暮らしを語っています。
この語が出てくる記事:3分でわかる|奈良時代の人は、何を食べていたのか
行き着く論点:都で暮らした人は、何を食べていたのか
朝鮮式山城
記事での言い方:山に築かれた城/百済の技術で築かれた城
7世紀後半、九州から瀬戸内にかけて築かれた山城です。朝鮮半島の城と造り方が似ていることから、こう呼ばれます。
★呼び名そのものが、由来についての見立てを含んでいます。 公的機関は、百済から渡ってきた人びとの技術によるものと説明しています。
★そして、この城には築かれた年の記録があります。 『日本書紀』が年を書いています。★ただし、記録の年と、材の年輪が示す年が食い違う例が出ています。
この語が出てくる記事:通史⑤ 飛鳥時代
鎮守府
記事での言い方:軍政をつかさどる役所/北の軍の役所
東北に置かれた、軍事をつかさどる役所です。奥州市は、808年までに多賀城から胆沢城へ移り、10世紀後半ごろまで「鎮守府胆沢城」として機能したと書いています。
★役所の名前は文献のものですが、置かれた城は掘られています。 胆沢城の跡からは木簡や、暦や兵士についての漆紙文書が出ています。「役所があった」は書物、「そこに暦と兵士の記録があった」は地面の話です。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期
津波堆積物
記事での言い方:津波が残した砂/地面に残った津波の跡
津波が陸に運んできた砂や泥が、地層の中に残ったものです。書物に書かれた津波を、地面の側から確かめる手がかりになります。
★ただし、2つの注意があります。 1つめ、堆積物の分布は、実際に水が来た範囲より狭い——産業技術総合研究所は「津波堆積物の分布域は実際の津波浸水域より小さいはず」と書いています。2つめ、堆積物が無いことは、津波が無かったことを意味しません——同じ機関がそう明記しています。
★そして「海岸から何キロ」と書くとき、当時の海岸線か、いまの海岸線かで、数字が変わります。 869年の津波について、当時の海岸線はいまより1〜1.5km内陸にあったと推定されています。
この語が出てくる記事:通史⑤ 飛鳥時代 / 通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:684年の地震は、地面に痕跡を残しているのか / 貞観津波は、どこまで来たのか / 1099年の南海地震は、実在したのか
テフラ
記事での言い方:火山灰/広域火山灰/灰の層
火山の噴火で空中に放り出された物のうち、火山灰や軽石のように、飛んで積もったものをまとめてこう呼びます。
歴史を調べる道具として、これがとても役に立ちます。
同じ噴火の灰は、広い範囲にほぼ同時に降ります。だから地層のなかにその灰の層が見つかれば、離れた場所の地層どうしを「この線は同じ時」でつなげます。
日本列島では、姶良(あいら)カルデラの噴火による灰(AT)と、鬼界(きかい)カルデラの噴火による灰(K-Ah、アカホヤ)の2つが特によく使われます。前者は東北地方まで、後者は九州から東北地方南部までを覆っています。
★ただし、目印そのものの年代に幅があります。 ATの年代は、産業技術総合研究所が30,009±189年前、気象庁が約29,000年前としています。約1,000年ずれています。 測り方が違うためです。
この語が出てくる記事:壊滅と継続 / 「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 3分でわかる|いま平らな土地が、昔から平らだったとは限らない / 通史① 旧石器時代
行き着く論点:鬼界カルデラの噴火は、縄文の暮らしに何をしたのか
ドメスティケーション
野生の動植物が、人とのつきあいのなかで、野生のものとは違う姿に変わっていくことです。日本語では「栽培化」「家畜化」と訳されます。
植物では、種が大きくなることが分かりやすい目印になります。縄文時代のダイズ・アズキでは、現在の野生種の最大値を超える大きさの種が、6,000〜4,000年前ごろに現れます。
★ただし「種が大きくなった」と「人が栽培していた」は、まだイコールではありません。
研究者自身が、こう書いています。種を播いて育てなくても、野生の集団を見守って採り続けるだけで大きくなる可能性が残っている、と。 その区別をつける実験が必要だとされています。
この語が出てくる記事:3分でわかる|縄文人は農耕していたのか
な行
日記(貴族の日記)
記事での言い方:貴族の日記/同席した人の日記/京で聞いた人の日記/その日の日記
この媒体の通史で「日記」と呼ぶのは、書いた本人がその日ごとに書き留めた記録です。通史⑧⑨に出るのは『貞信公記』(藤原忠平)『小右記』(藤原実資)『御堂関白記』(藤原道長・自筆)『兵範記』(平信範)『玉葉』(九条兼実)です。東京大学史料編纂所の刊行一覧は「貞信公記 藤原忠平(880‐949)の日記」「小右記 藤原実資(957‐1046)の日記」と説明し、国立歴史民俗博物館は『兵範記』を「平信範(1112~87)の日記。人車記ともよばれる。」と書いています。
★『日本紀略』は日記ではありません。 後の時代に編まれた歴史書です(用語集「日本紀略」の項)。通史⑧は、朝廷の歴史書が続かなくなったあとに出来事を日付で残したものを、後の時代に編まれた歴史書と、貴族の日記の2種類として書いています。
★日記が「その日に書かれた」ことと、いま読める本文が「その日のまま」であることは別です。 『兵範記』で残っているのは信範が晩年に自分で清書した本とその写し(用語集「自筆清書本」の項)、『玉葉』の九条本は宮内庁書陵部の目録で「写, 鎌倉前期」です。
この語が出てくる記事:3分でわかる|奈良時代の気候は、わかっているのか / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
日本紀略
記事での言い方:後の時代に編まれた歴史書/あとの時代に編まれた歴史書/あとから編まれた歴史書
龍谷大学図書館の解題は、こう書きます。「『日本紀略』は、平安時代後期に成立したとされる歴史書である。編者は不詳であり、神代から後一条天皇の長元9年(1036)までの歴史が、編年体の体裁を採り、漢文で記されている。」同じ大学の別の解題は「『日本紀略』は、平安時代末期に編纂された歴史書である。編者は未詳。」と書き、成立の語が「後期」と「末期」で違います。この媒体はどちらかに丸めず、2つを並べます。
★日記ではありません。 通史⑧の初版はこれを「貴族の日記」と書いていましたが、当たった4つの機関の記述のどこにも「日記」の語は無く、機関の語は「歴史書」「編年体」「編者不詳」でした(2026-09-16 訂正)。940年の将門の死を伝える信濃からの早馬の奏文と、969年の安和の変の記事は、この本に収められた形で読みます。奏文が940年のものであることと、それを収めた本があとの時代のものであることは、別です。 10世紀の部分が何に依拠しているかは、この媒体はまだ確かめていません。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
年縞
湖の底などに、1年に1組ずつ縞ができて積み重なったものです。
夏と冬で沈むものが違うため、木の年輪と同じように1年ずつ数えられます。
福井県の水月湖の年縞は、放射性炭素年代を暦に直すときの世界の基準の一つとして使われています。姶良カルデラの噴火の年代(30,009±189年前)も、この湖の年縞のなかにある火山灰の層から出た値です。
年輪年代法
記事での言い方:木の年輪を測る/伐られた年
木の年輪の幅は、その年の気候によって変わります。同じ地域の木は、同じ年に同じような幅の年輪を作ります。
その並びを長い年月ぶんつなげた物差しを作っておき、調べたい木材の年輪の並びを重ね合わせて、何年の年輪かを読み取ります。
★うまくいけば、1年の単位で年が出ます。放射性炭素年代より細かくなります。
★★ただし、注意が2つあります。
1つめ。出るのは「木が伐られた年」です。「それが使われた年」ではありません。 古い材を取っておいて後で使うことも、古い建物の材を再利用することもあります。
2つめ。樹皮の側が残っていないと、外側の年輪が何枚失われたか分からず、伐採の年に幅が出ます。
年輪セルロース酸素同位体比
記事での言い方:年輪から復元した気候/年単位の気候データ
木の年輪に含まれる酸素の種類の割合から、その年の夏の降水量などを1年きざみで復元する方法です。
★歴史の資料としての強みは「年単位」であることです。 ほかの多くの気候の復元は数十年〜数百年きざみで、出来事の年と突き合わせられません。
★ただし、突き合わせられることと、原因だと言えることは別です。 気候が数百年の物差し、集落の動きが数十年、噴火が数日——同じ文章に並べると、1本の物差しに見えてしまいます。
行き着く論点:9世紀の気候は、何と呼ぶべきか / 10世紀の日本は、暖かかったのか、寒かったのか
は行
ハイドロアイソスタシー
記事での言い方:土地そのものが上下する/土地の上下
海水の重さが変わると、土地そのものが上下するという現象です。
氷期に海の水が減ると、海の底にかかる重さが軽くなって海底が持ち上がり、そのぶん陸側が沈みます。氷がとけて水が増えると、逆のことが起きます。
★これが厄介なのは、「海面が何m下がったか」の答えが場所によって変わることです。
最終氷期最盛期の海面は、世界全体ではいまより約120〜134m低かったとされますが、日本列島の周辺では約100〜130mと、浅めの値が出ます。海面の下がり方が違ったのではなく、土地の上下が違ったのです。
縄文時代の海面上昇(縄文海進)のあと海面が下がって見えるのも、氷が増えたからではなくこの土地の上下によるものだと、日本第四紀学会は説明しています。
この語が出てくる記事:通史① 旧石器時代
行き着く論点:縄文海進は、いつ、どれだけだったのか
配流
記事での言い方:伊豆国へ配流される/伊豆へ流された/讃岐に遷し奉り
罪として、都から遠い国へ送ることです。
★記事に出てくる配流先を並べると、列島の東と北に散っています。 866年の応天門の変では伊豆・能登・安房・常陸・上総・下総・越後・佐渡へ。842年の承和の変では橘逸勢が伊豆へ(遠江の駅で死去)。1156年の保元の乱では上皇が讃岐へ。
★「配流された」までは綱文で書けますが、「なぜ」は綱文に書かれていません。 この媒体の記事も、そこは書いていません。
この語が出てくる記事:通史⑦ 平安時代 前期 / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安前期の政変は、書物の外から確かめられるのか
版本
記事での言い方:写し/刊本/現存する本
昔の書物は、書かれた当時の原本が残っていないことがほとんどです。いま私たちが読んでいるのは、後の時代に写されたり印刷されたりしたもので、これを版本といいます。
★版本によって、書いてある字が違うことがあります。 同じ書物の同じ箇所で、一字だけ別の字になっている——ということが実際にあります。
どの版本を使うかは、読む人が選んでいます。 「本にはこう書いてある」と言うとき、どの本のことなのかで話が変わる場合があります。
この語が出てくる記事:金印は、いつから「57年の印」になったのか / 「邪馬台国」は、本にそう書いていない / 3分でわかる|里数をそのまま足すと、どこに着くのか / まず、これだけ|邪馬台国とは何か
行き着く論点:私たちが読んでいる「邪馬台国」は、本にそう書いてあるのか / 倭人伝の30の国名は、証本によって字が違うのか / 聖徳太子の誕生譚は、いつ何が足されたのか
幕下
記事での言い方:幕下のもと/続きの文で束帯を着て西の廊に出てくる人——頼朝——を指す語
『吾妻鏡』のこの箇所で、源頼朝を指すと読める語です。1192年7月25日、除書を受け取った三浦義澄が「帰参幕下」——幕下のもとに戻った——と書かれ、続きの文で束帯を着て西の廊に出てくる人が頼朝なので、通史⑨は「幕下」を頼朝を指す語だと読みます。これは記事の読みで、機関の記述で確かめた同定ではありません。 初版の「幕府に戻ります」は 2026-09-16 に訂正しました。
★訂正した理由は、同じ記事が「これを「幕府の成立」と呼ぶかどうかは、別の問いです」と書いていることです。 史料の語を「幕府」と訳せば、その日に「幕府」があったと書くことになります。この媒体は、その形では書きません。
この語が出てくる記事:通史⑨ 平安時代 後期
抜歯(風習的抜歯)
健康な歯を、決まった型にしたがって抜く風習です。縄文時代の人骨に多く見られます。
岡山県の津雲貝塚や愛知県の吉胡貝塚では、成人した人の全員が上あごの左右の犬歯を抜いていたと報告されています。さらに、下あごのどの歯を抜くかでグループが分かれることも知られています。
意味については、成人の儀式ではないか、結婚の際のものではないか、出身の違いを示すのではないか——いずれも仮説として書かれており、断定した公的な説明は見当たりません。
この語が出てくる記事:通史② 縄文時代
飛駅
記事での言い方:早馬の使い/信濃からの早馬/早馬
急ぎの知らせを、駅ごとに馬を乗り継いで都へ届ける使いのことです。『日本紀略』は将門の死を「今日信濃国馳駅来奏云(今日、信濃国の飛駅が来て奏上して言うには)」の形で書いています。 下総で起きたことが、信濃を経由して、12日後に京へ届きました。『日本紀略』は日記ではなく、後の時代に編まれた歴史書です(用語集「日本紀略」の項)。奏文は940年のものですが、それがそのままの形でこの本に入っているかどうかは、この媒体にはわかりません。
★京にいた人は戦いを見ていません。 この本に収められた奏文が書いているのは、出来事そのものではなく「知らせが届いたこと」です。この媒体は、その形のまま書きます。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
比定
記事での言い方:比定/「ここだ」と言う/今の土地に当てはめる
史料に書かれた地名や人名を、今のどの場所・誰にあたるかと読み手が当てはめることです。史料が書いていることではなく、読み手が行うことです。 だから同じ史料から、違う比定が出ます。
★機関が比定を書くとき、語尾は留保になっています。糸島市は三雲・井原遺跡を伊都国の王都に「位置付けられます」と書き、吉野ヶ里歴史公園は不弥国を宇美町付近と「考えられている」と書き、同じ公園のサイトの現代語訳の注は「何れのばあいも地名比定は不確定である」と書いています。この媒体は、比定を表に書くときに「誰がそう書いているか」を必ず添え、地図に点を打ちません。
この語が出てくる記事:3分でわかる|里数をそのまま足すと、どこに着くのか / 倭人伝に名前が出てくる国は、いくつあるのか / 通史③ 弥生時代 / 通史④ 古墳時代
行き着く論点:「倭の五王」は、記紀の誰にあたるのか
編年体
記事での言い方:年月日の順に漢文で書かれた歴史書/年月日の順に並べる
出来事を年月日の順に並べて書く体裁です。龍谷大学図書館の解題は『日本紀略』を「編年体の体裁を採り、漢文で記されている」と書き、通史⑧はこれを「前の回の4本と同じく年月日の順に漢文で書かれた歴史書」と言い換えています。
★体裁が日付順であることと、書かれた時が出来事に近いことは別です。 『日本紀略』は日付順ですが、成立は「平安時代後期」「平安時代末期」とされ、10世紀の出来事はあとの時代に編まれた本に収められた形で読みます。
この語が出てくる記事:歴史書は、なぜ滅んだ国のぶんまで残っているのか / 通史⑧ 平安時代 中期 / 通史⑨ 平安時代 後期
行き着く論点:平安中期の政変は、同時代の記録でどこまで書けるか
ま行
木簡
記事での言い方:木の札/荷札/墨で書かれた木片
紙が高価だった時代に、細長い木の板に墨で字を書いたものです。荷物に付ける札、連絡のメモ、練習用の書き付けなど、用途はさまざまです。
★歴史を調べるうえで、これには書物にない強みがあります。書き直されないことです。
書物は編まれたものです。編む人には目的があり、あとから直す理由もあります。★木簡は、使われて、捨てられたものです。捨てた札を書き直しに戻ってくる人はいません。
★だから、同じ出来事について書物と木簡が食い違ったとき、木簡のほうが「当時そう書かれていた」ことの証拠になります。(★ただし、木簡が正しいという意味ではありません。当時の書き方が分かる、という意味です。)
この語が出てくる記事:まず、これだけ|国号「日本」は、いつからか / 荷札は、書き直されない / 「奈良の大仏」は、いつの大仏か / まず、これだけ|『続日本紀』とは何か
行き着く論点:「大化改新」は、どこまで645年の出来事なのか / 「天皇」の号は、いつから使われたのか / 十七条憲法と冠位十二階は、何によって確かめられるのか
ら行
羅城(らじょう)
記事での言い方:都を囲む壁/囲い/柱の列と濠
中国の都城で、都の外周をぐるりと取り囲む城壁のことです。唐の都・長安では、幅約6メートル(最も広い所で約9メートル)の壁が、周囲約36キロにわたって都を一周していたと報告されています。
日本の都では、これが同じ形では作られませんでした。
平城京では、朱雀大路の南の端にある羅城門の左右で、柱を2列に立て、その内と外に濠を掘った施設が発掘されています。柱の直径は12〜16センチと報告されています。壁ではなく、柱の列です。
★そして、及ぶ範囲も違います。 文献の側は「囲いは南の面にのみあった」と書きますが、東・西・北の面を掘って何も出なかったと確かめた調査には、まだ届いていません。 「無かった」と確かめられているわけではない、という状態です。
この語が出てくる記事:幅6メートルの壁と、太さ12センチの柱 / 通史④ 古墳時代 / 通史⑥ 奈良時代
行き着く論点:平城京の東・西・北の面に、囲いはあったのか / 囲いを作れた王権が、なぜ都だけを囲わなかったのか
六国史
記事での言い方:朝廷が編んだ歴史書/正史/4本に増えた歴史書
『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の6本を、まとめてこう呼びます。朝廷が命じて編ませた歴史書です。
★6本の残り方は、同じではありません。 国立公文書館は『日本後紀』を「全40巻(現存10巻)」と書いています。平安京遷都を含む42年間を書いた本が、4分の1しか残っていません。
★そして、あとの3本の筆頭の撰者は、藤原良房・基経・時平です。 それは事実として書けます。「だから偏っている」とは、書物の外の証拠と突き合わせるまでは言えません。 この媒体は、その突き合わせをまだしていません。
この語が出てくる記事:金印は、いつから「57年の印」になったのか / 「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 3分でわかる|「謎の四世紀」 / 歴史書は、なぜ滅んだ国のぶんまで残っているのか
陵墓
記事での言い方:天皇陵/◯◯天皇陵古墳
天皇・皇族の墓として管理されている場所です。考古学の呼び名と、管理上の呼び名が別々にあります。
★そして、誰が葬られているかについて、機関ごとに書き方が大きく違います。 宮内庁は陵号と天皇の名を留保なしに掲げ、堺市博物館は「本当はよくわかっていません」と書き、文化庁は被葬者に触れていません。
同じ古墳を指しているのに、名前の付け方が3通りあります。 この媒体では、天皇の名で「誰々の墓」と書くことはしていません。
この語が出てくる記事:まず、これだけ|古墳とは何か / 日本でいちばん大きい墓、上から10基 / 通史④ 古墳時代 / 通史⑤ 飛鳥時代
行き着く論点:大きな古墳に、誰が葬られたのか
陵墓参考地
記事での言い方:陵墓参考地/畝傍陵墓参考地
天皇・皇族の墓である可能性があるとして宮内庁が管理している古墳などのことです。陵とは違い、天皇名は付いていません——たとえば五条野丸山古墳は「畝傍陵墓参考地」と呼ばれ、河内大塚山古墳は大正14年(1925年)に陵墓参考地となりました。ニサンザイ古墳は「反正天皇の空墓として」陵墓参考地に指定されている、と堺市が書いています。
★陵墓参考地も、陵と同じく立ち入りが限られています。 松原市は河内大塚山古墳について「自由に墳丘内に立ち入れず、学術的な発掘調査は行うことは出来ません」と書いています。「参考地」という名は「まだ決まっていない」という意味を含んでいますが、掘って確かめる道は、陵と同じく開いていません。
この語が出てくる記事:日本でいちばん大きい墓、上から10基
レプリカ法
土器の粘土に残った、種などの跡(圧痕)を型取りして調べる方法です。
粘土をこねるときに種が混ざり、焼くときに種は燃えてなくなり、種の形をしたくぼみだけが残ります。 そこに樹脂を流し込んで型を取り、顕微鏡で見て種類を見分けます。
強いところ:土器が作られた時期に、その種が確かにあったと言えます。土のなかから出た種は、あとの時代のものが混ざり込んでいる可能性がありますが、土器の中の種にはそれがありません。
★弱いところが3つ、研究者自身の言葉で示されています。
- 種類によって残りやすさが違う。 神奈川県中屋敷遺跡では、土器の圧痕からイネが0点だったのに、同じ遺跡の土坑から出た種はイネ338点でした
- 表面に出ている跡しか見えない。 器の内部に隠れた跡(潜在圧痕)のほうが本来は多いはずで、X線CTなら見えますが、費用と時間がかかり大規模な調査には向きません
- 大きさの補正が決まっていない。 種は粘土の水を吸って膨らみ、焼けた種は縮みます。補正の方法が研究者間で違い、直接くらべられません
この語が出てくる記事:3分でわかる|縄文人は農耕していたのか
わ行
倭の五王
記事での言い方:五人の倭王/讃・珍・済・興・武
5世紀の中国の史書『宋書』に、倭の王として名が現れる讃・珍・済・興・武の5人をまとめてこう呼びます。
★この5人が、日本の古い書物に出てくる誰にあたるのかは、史書には書かれていません。 『宋書』は「讃は誰か」を書いていません。結び付けは後の人による推定です。
そのため、「この王は誰々である」と書いてある解説と、「比定には定説がない」と書いてある解説が、同じ自治体のなかにも並んでいることがあります。
この語が出てくる記事:「謎の四世紀」は、4世紀ではない / 通史④ 古墳時代
行き着く論点:「倭の五王」は、記紀の誰にあたるのか / 「謎の四世紀」という呼び名は、いつ作られたのか
その他
アイヌ文化
記事での言い方:北海道とその周辺で展開した文化
★先史時代の記事にこの語が出るとき、注意が要ります。
北海道では、縄文文化のあと、続縄文文化 → 擦文文化 → アイヌ文化という順で移り変わったとされます。有力説 そのため、縄文を語るときに「その先」としてこの語が引かれることがあります。
★しかしアイヌは、現に生きている人びとです。 先史の集団の「到達点」として書くことは、この媒体が縄文人について行った「便宜的なカテゴリーである」という扱いを、この集団には適用していないということになります。
★遺伝の話でも、同じ注意が要ります。 古代ゲノムの研究が示しているのは、現代アイヌが縄文系の遺伝的成分を最も高い比率で保持するという集団レベルの近縁性です。有力説 特定の1個体が「祖先である」という意味ではありません。
オホーツク文化
記事での言い方:北海道のオホーツク海沿岸に広がった、海獣を獲る文化
5〜13世紀ごろ、北海道のオホーツク海沿岸・サハリン・千島に広がった文化です。定説 海獣狩猟と漁労を中心とし、擦文文化とは別系統とされます。
★この文化の担い手は、アムール川下流域につながる集団と考えられています。有力説 つまり北海道の歴史は、縄文から一本道でアイヌに至るのではありません。 途中で別系統の集団が入っています。
この語が出てくる記事:通史⑤ 飛鳥時代
ラハール
記事での言い方:噴火のあとの泥の流れ
火山の噴出物が水と混じって流れ下るものです。産業技術総合研究所は、915年の十和田火山の噴火について「火砕流の噴出後にラハールが発生した」「ラハール堆積物に埋没した建物が複数発見されている」と書いています。
★火山灰は「降る」もの、ラハールは「流れる」ものです。 家を埋めたのは、灰そのものではなく、あとから流れてきた泥でした。そして、その家の柱の木は902年以降に伐られたものだと、年輪で分かっています(東北大学総合学術博物館)。
この語が出てくる記事:通史⑧ 平安時代 中期