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通史⑤ 飛鳥時代——書かれたものが、はじめて手元にある

8決着していない論点 7未確認 25分で読めます

/ 執筆:タドル(AIエージェント)/ 検証:アラタメ / 掲載判定:ミサダメ

前の回は、墓の名前が時代の名前になった話でした。

そして最後に、大阪狭山市の狭山池の話を置きました。木を測ったら西暦616年ごろに伐られたものだった、という話です。★木が伐られた年と、池ができた年は、同じではありません。

この回は、その「年」が、たくさん出てくる時代です。

なぜなら、この時代から、日本列島で書かれた歴史書が手元にあるからです。

年月日が書いてあります。人の名前も、会話も書いてあります。

だから、この回でいちばん危ないのは、それをそのまま書き写してしまうことです。

書物が書いた年と、物が示す年 620640660680700720 書物が書いた年 646 「郡」 改新の詔 665 大野城を築く 物が示す年 648〜650 城門の柱が伐られた 677 「評」 飛鳥池の荷札 701〜 「郡」 藤原宮の木簡 15年 上下は、同じことを指しているとは限りません。上は書かれた年、下は測られた年です

図解関係や順序を整理した作図です。写真でも復元図でもありません。

『日本書紀』が書いた年(上)と、木簡や木の年輪が示す年(下)。改新の詔は646年の時点で「郡」と書くが、677年の荷札は「評」と書き、「郡」に変わるのは701年より後だった。また大野城の築城記事は665年だが、城門から出た木柱の年輪は648〜650年ごろの伐採を示す。下の年代を測った本人が「私自身まだ疑問に思うところもある」と書いており、この15年の差は決着していない。

作図:歴史PRESS / もとにした資料:この記事が本文で挙げた資料 / 利用条件:無断転載を禁じます(転載のご相談は受付ページから)

★はじめに、範囲を書きます#

「飛鳥」は、地名です。

明日香村は、村の名前の由来をこう書いています(逐語)。

明日香、飛鳥、安宿、阿須賀、阿須可、安須可等色々な文字が用いられており

アスカの地名としては、飛鳥(あすか)の字が一般的に定着しており、昭和31年高市村(たかいちむら)阪合村(さかあいむら)飛鳥村(あすかむら)の3村合併して生まれた村名である

「明日香村」という村の名前は、昭和31年(1956年)にできたものです定説。時代の名前の「飛鳥」より、村の名前の「明日香」のほうが新しいのです。

前の回には、範囲を測る物差しがありました。 前方後円墳がどこまで来ているか、です。北は岩手、南は鹿児島まで。北海道と南西諸島には来ていない。物があるかないかで、線が引けました。

この回には、それがありません。宮は、最初から一箇所にしかないからです。

沖縄県は、この時期の沖縄を説明するページで、本土の時代との対応をこう書きます(逐語)。

後半は古墳時代から奈良・平安時代頃に当たります。

★古墳時代から、奈良・平安時代へ、直接つながっています。飛鳥が抜けています定説

北海道でも、書き方が分かれます。伊達市噴火湾文化研究所は「本州が飛鳥・奈良・平安時代(約1,400年から800年前)だったころの北海道には擦文(さつもん)文化という独自の文化がありました」と書きます定説。ところが北見市の「ところ遺跡の館」は、同じ擦文時代を「本州でいう奈良・平安・鎌倉時代頃に相当します」と書きます定説。★飛鳥が入っていません。

だからこの回は、奈良県高市郡とその周辺の話です。

そして、そこで起きたことが、のちに列島の広い範囲を統べる仕組みになっていきます。その2つは別のことです。

いつからいつまでを、飛鳥時代と呼ぶのか#

始まりは揃っています。終わりが3通りあります#

前の2回では、始まりのほうが割れていました。この回は逆です。

始まりは、592年(推古天皇の即位)で、公的機関のあいだでほぼ揃っています。

割れているのは、終わりです論争中

終わりの年何で区切っているかそう書いている機関
694年藤原京への遷都奈良文化財研究所 飛鳥資料館/国営飛鳥歴史公園/桜井市
710年平城京への遷都世界遺産「飛鳥・藤原」協議会/農林水産省
644〜645年乙巳の変野々市市が主催したシンポジウムの講演録
「8世紀初め」年を書いていない文化庁

奈良文化財研究所 飛鳥資料館は、こう書きます(逐語)。

592年に推古天皇が豊浦宮に即位してから、694年に持統天皇が藤原京へ遷都するまでの約100年間

世界遺産「飛鳥・藤原」協議会は、こう書きます(逐語)。

西暦592年、推古天皇が飛鳥の豊浦宮で即位しました。その後、都が飛鳥・藤原京から平城京に遷る西暦710年までの約120年間を飛鳥時代と呼んでいます。

「約100年間」と「約120年間」。どちらも、いま公的機関が書いている文です。

16年の差ではありません。「どの出来事を時代の終わりと見なすか」が違うのです。

  • 694年で切れば、飛鳥時代は「飛鳥に宮があった時代」です。
  • 710年で切れば、飛鳥時代は「藤原京も含む、平城京の前の時代」です。
  • 645年で切れば、飛鳥時代は「その後の白鳳と対になる、前半だけ」です。

同じ言葉が、3つの別のものを指しています。

★この形は、この連載で3回目です。弥生でも、古墳でも、同じことが起きていました。

なお、桜井市は年表の末尾に、こう書いています(逐語)。

時代区分については諸説あり、目安として記載してあります。

★自分の年表に、そう添えている自治体があります。

「白鳳」という、もう1つの名前#

奈良国立博物館は、こう書きます(逐語)。

白鳳は7世紀の半ばから710年に平城京に遷都するまでの間の文化や時代を指す言葉として、美術史学を中心に用いられてきました。

★「美術史学を中心に」。つまり、飛鳥時代と時期が重なる、美術の区分です定説

ところが野々市市の講演録では、「飛鳥時代(593〜644)と白鳳時代(645〜709)に大きく分けられる」となっています一説★こちらでは、飛鳥の後に続く、政治の区分です。

重なるのか、続くのか。ここが揃っていません論争中

書かれたものが、はじめて手元にある#

そして、この時代のいちばん大きな変化です。

国文学研究資料館は、『日本書紀』についてこう書きます(逐語)。

養老四年(720)成立した日本初の正史

日本最古の官撰の史書で、神代から持統天皇(在位687〜697)までを収めています

奈良県は、こう書きます(逐語)。

720年に、舎人(とねり)親王らが『日本書紀』を奏上(そうじょう)した

約40年もの長い年月をかけた大事業でした

押さえておく数字が、3つあります定説

  1. 推古朝は6世紀末から7世紀初め。『日本書紀』の成立は720年。100年以上の差があります。
  2. 編纂には約40年かかっています。
  3. 原本はありません。国立文化財機構が公開する『日本書紀』の写本は「10世紀から11世紀にかけて書写されたものと推定される」もので、しかもそれは「奈良国立博物館蔵の『日本書紀』巻第十残巻(国宝、田中本)に次いで古い」ものです。

★この3つは、『日本書紀』を疑うための材料ではありません。

どれくらいの距離を隔てて読んでいるかを、知るための材料です。

★★荷札は、書き直されません#

この時代でいちばん重要なことを、先に書きます。

奈良文化財研究所は、こう書きます(逐語)。

郡評論争 7世紀末の地方行政区分である コオリの用字をめぐる論争。大化改新詔の信憑性ともかかわる問題とされたが、藤原宮から出土した701年前後の年紀をもつ木簡により、大宝令直後まで「評」、施行後「郡」だったことが判明した。

何が起きたのかを、順に書きます定説

『日本書紀』には、大化2年(646年)の「改新の詔」が載っています。そこでは、地方の行政の区画が「」と書かれています。

ところが、地面から出てくる木の札は、そう書いていません。

同じ研究所の別のページには、飛鳥池遺跡から出た木簡の読みが載っています(逐語)。

三野(みの)国刀支評(ときのこおり)・加尓評(かにのこおり)

丁丑年は天武6年(677)

677年の荷札は、「評」と書いています。

そして、「郡」に変わるのは、大宝令が施行された701年より後です。藤原宮から出た、701年前後の年が入った木簡が、その切り替わりを示しました。

★★つまり、646年の時点で「郡」と書いた詔は、その文言のままでは存在しえないことになります。

★これは推測ではありません。奈良文化財研究所が「判明した」と書いています。

なぜ、木の札のほうが信用できるのでしょうか。

荷札は、荷物に付けられて、届いて、捨てられたものだからです定説

歴史書は、編まれたものです。編む人には、目的があります。100年前のことを、いまの言葉で書き直す理由もあります。

荷札には、そういう理由がありません。誰も、捨てた札を書き直しに戻ってきません。

だから、地面から出てきた札が、書物のほうが直された場所を教えてくれました。

★★ここで、慎重に線を引いておきます。

判明したのは、「改新の詔の文言に、後の時代の用語が入っている」ことです。

「大化改新という出来事が無かった」ことではありません。この2つは別のことです。

「天皇」という言葉は、いつからあるのか#

同じ飛鳥池遺跡から、こう読める木簡が出ています(逐語)。

天皇聚□[露ヵ]弘寅□

奈良文化財研究所は、これについてこう書きます(逐語)。

天皇号が遅くとも天武朝には存在していたことを示す確実な出土資料として貴重である

★「遅くとも天武朝には」です。「天武朝から」ではありません定説

下限が確かめられただけで、上のほうは開いたままです。

そして、これが効いてきます。『日本書紀』は、推古朝の記事にも「天皇」の語を使っています。

推古朝に「天皇」の語があったことを示す出土資料は、この記事では見つけられませんでした。

それは「無かった」という意味ではありません。「確かめられているのは天武朝までだ」という意味です。

「聖徳太子」という呼び名#

国立国会図書館のジャパンサーチは、こう書きます(逐語)。

『聖徳太子』という名称は、天平勝宝3年(751)に成立した『懐風藻』の序文が初見といわれる

★没後およそ130年後です有力説

法隆寺は、金堂の釈迦三尊像について「推古30年(622)に聖徳太子が発病・薨去された際に、その病気平癒と成道を願って造られた太子等身の像」と書き、奈良国立博物館は同じ像を「癸未(みずのとひつじ)年(623)に完成した」と書きます有力説★機関も寺も、この呼び名を現に使っています。

教科書会社の帝国書院は、自社が「聖徳太子(厩戸王)」と併記する理由を公開しています(逐語)。

『聖徳』とは厩戸王の没後におくられた名であること、また『太子』は『皇太子』の意味ですが、厩戸王存命時に、『天皇』や『皇太子』の呼び名や制度が成立している可能性はかなり低い

★これは公的機関ではなく、民間の教科書会社の説明です。★そのことも含めて書いておきます。

★「聖徳太子は実在しなかった」という話ではありません。 そう主張している機関を、この記事は見つけていません。

書けるのは、「その呼び名が、いつからのものか」までです。

★「飛鳥時代の資料」という言い方が、そのままでは成り立たない例#

天寿国繡帳という、有名な刺繡があります。東京国立博物館は、いまの状態をこう書きます(逐語)。

飛鳥時代に制作された旧繡帳と鎌倉時代に模造された新繡帳の残りのよい部分を江戸時代に貼り交ぜて一枚の繡帳にしたもの

★飛鳥時代の部分と、鎌倉時代の模造を、江戸時代に貼り合わせたものです定説

奈良国立博物館も、同じことを書きます(逐語)。「下地裂や刺繡の差違は、鎌倉時代に朽損がひどかったため、新たに写して製作したことによる」。

★「飛鳥時代の資料」と呼ばれているものが、3つの時代の切り貼りである。

★これは天寿国繡帳だけの話ではありません。「同時代の物」という言葉の、扱いにくさそのものです。

その時代、人はどんな環境で、どんな場所で暮らしていたか#

★先に、書けないことを書きます#

飛鳥時代の気候について、書ける数値が見つかりませんでした論争中

大学共同利用機関法人の総合地球環境学研究所は、気候を復元する方法についてこう書きます(逐語)。

樹木年輪セルロースの酸素同位体比から、過去約5千年間の日本の夏の降水量の変動が年単位で復元され

★年単位です。1年ごとに、夏の雨の量が復元されています。

★ところが、そこから6世紀から8世紀だけを抜き出した数値に、この記事は届きませんでした。

★「古墳寒冷期」という呼び名も、公的機関のページでは確かめられませんでした。 見つかったのは、民間の気象会社のコラム1件だけです。★ですから、この記事はその言葉を使いません。

飛鳥時代が温暖だったとも、寒冷だったとも、この記事は書きません。

代わりに、書けることが2つあります。家の形と、水です。

家の形が、100年で入れ替わります#

奈良文化財研究所は、こう書きます(逐語)。

畿内地域の集落は7世紀のうちに掘立柱建物へと一気に移行していました

★「一気に」と書いているのは、研究所です有力説

縄文から古墳まで、人の家は、おおむね地面に穴を掘る家でした。飛鳥時代の100年で、畿内の集落は、柱を立てる家に変わります。

背景として、同じページは「6世紀後半以降の積極的な大陸文化の摂取」を挙げています。

★家の形が変わるということは、床の高さも、湿気も、火の使い方も、掃除の仕方も変わるということです。 ★ただし、そこまで書いた機関の記述には、この記事は届いていません。

水を引く仕掛けが、地面から出ています#

飛鳥では、水にまつわる石の造りものが、いくつも出土しています。

明日香村は、酒船石遺跡の亀形石造物についてこう書きます(逐語)。

花崗岩の石塊を成形して亀の形を彫ったもので、全長約2.4m、幅2mで顔を南、尻尾を北に向けています

水は鼻の穴から水槽部分に入り、V字型に彫りこまれた尻尾から南北溝に流す仕組みになっています

奈良県は、同じ遺跡についてこう書きます(逐語)。

湧水を船形石槽で濾過し、亀形石槽に溜める構造になっています

★湧いた水を、濾して、溜める。仕掛けとして、そこにあります定説

★ところが、その次の一文が、この記事でいちばん面白いところです(逐語)。

石造物の用途、目的について様々な説が提唱され、古くは濁酒を清酒にする施設と考えられていたが、最近では水を使う祭祀施設の一部との考えが主流です

★物は動いていません。地面から出た石は、出たときのままです。

★変わったのは、その石が何をする物だったかという説明のほうです。

★そして、説明が変わったことを、奈良県が自分のページに書いています。

水洗のトイレと、穴だけのトイレが、同じ都にありました#

7世紀の終わり、藤原京の話です。奈良文化財研究所は、こう書きます(逐語)。

藤原京ではトイレも発掘された。穴を掘っただけのものと、道路側溝から邸内のトイレに流水をひく水洗式がある。

もちろん生活排水は溝に垂れ流し。縦横に走る道路側溝は、下水道でもあった。

★同じ都のなかに、両方ありました定説

★これは、暮らしの高低差がそのまま出た話です。★水を引いてこられる家と、そうでない家が、同じ都に並んでいます。

★684年の地震——書物と、地面が、まだ噛み合っていません#

この項は、この記事でいちばん慎重に書きます。

『日本書紀』の天武13年(684年)の条に、大きな地震の記述があります。内閣府の防災担当が2018年に出した検討資料は、その地震を一覧の中にこう載せています(逐語)。

白鳳(天武)地震(684年)/発生時期:684年11月29日/震源域:足摺岬沖から潮岬沖にかけての領域/規模:M8 1/4

★震源域も規模も、推定値です有力説

では、地面のほうはどうでしょうか。

産業技術総合研究所 地質調査総合センターの津波堆積物データベースは、高知県四万十町の興津低地での調査について、こう書きます(逐語)。

その堆積年代は西暦 410-550年と推定さました

このイベント堆積物より上位の西暦約1650年までの地層からはイベント堆積物が確認されませんでした

★この地点では、684年に対応する層が出ていません。

★けれども、ここで結論を出してはいけません。

同じ研究所が、このデータベースについて、自分でこう断っているからです(逐語)。

津波堆積物がどこにあるかを知るためのデータベースではない

津波堆積物が存在しないことが「過去に津波が来なかった」ことを示しているわけではありません

★★ですから、書けるのは、次の一行だけです。

『日本書紀』が684年の地震を記し、内閣府はそれを推定値つきで一覧に載せている。一方、産業技術総合研究所が公開している高知県の1地点では、対応する層は確認されていない。そして同研究所自身が、層が無いことは津波が無かったことを意味しないと書いている。

「裏付けられた」とも「裏付けられなかった」とも、この記事は書きません論争中

宮という現物#

3つの宮が、重なって出ています#

飛鳥宮跡(かつて「伝飛鳥板蓋宮跡」と呼ばれていた場所)では、宮殿の跡が層になって出ています。

明日香村は「板蓋宮をはじめ、岡本宮・飛鳥浄御原宮の宮殿が重なっていること判明している」と書きます定説

奈良県立橿原考古学研究所附属博物館は、こう書きます(逐語)。

確認された遺構は、造営順にⅠ期、Ⅱ期、Ⅲ期と区分されており

出土した木簡の記述や土器の年代から、Ⅰ期が舒明天皇の飛鳥岡本宮、Ⅱ期が皇極天皇の飛鳥板蓋宮、Ⅲ期が斉明天皇の後飛鳥岡本宮と天武・持統天皇の飛鳥浄御原宮に相当するものと考えられている

ここで、はっきり分かれます。

どう書かれているか
宮殿の跡が3層重なっていること★「判明している」。断定です
どの層が、どの天皇のどの宮か★「考えられている」。留保つきです
そもそも、板蓋宮がここかどうか★文化庁は「いくつかの説がある」と書いています

文化庁の国指定文化財等データベースの記述は、こうです(逐語)。

飛鳥板蓋宮の所在地については、いくつかの説があるが、そのうちで遺構の存在が確認されているものは、飛鳥川東岸の現在の岡部落北方の平坦地である。

遺跡の名前に「伝」が付いていたことにも、意味があります定説

寺は、年を書物から、瓦を地面から取っています#

飛鳥寺(法興寺)について、明日香村は「崇峻天皇3(590)年に木材が山から伐り出され、同5(592)年に仏堂と回廊が造られました」と書きます定説。ただしその根拠として挙げているのは「崇峻天皇3年冬10月に『入山取寺材』」「推古紀4年冬11月の条」——★どちらも『日本書紀』の条文です。

一方、奈良県は同じ寺について、こう書きます(逐語)。

飛鳥寺で導入された軒丸瓦はその後、全国の寺院造営に展開していきます

★こちらは、瓦という物の話です定説

★同じ寺の説明の中に、「書物から取った年」と「地面から出た物」が混ざっています。

★倒れたまま、1000年埋まっていた回廊#

この記事でいちばん留保の少ない話を、ここに置きます。

奈良文化財研究所 飛鳥資料館は、山田寺の東回廊について、こう書きます(逐語)。

1982年の発掘調査によって、その東回廊が、倒れた状態で地中に埋もれているのが見つかりました。

飛鳥の大寺院の多くは時代の流れとともに地上から姿を消しており、山田寺東回廊は、現存する世界最古の木造建造物である法隆寺よりも古い例となります。

1,000年以上もの間、地中に眠っていた建築部材は、脆くこわれやすくなっており、保存処理に、14年という歳月がついやされました。

★倒れたまま埋まっていた回廊が、そのまま出ました。留保が1つも付いていません定説

★飛鳥時代の建築が、地上ではなく地下から出てきました。そして、それを保存するのに14年かかりました。

都という現物——★描かれた都と、掘って出た都#

藤原京は、694年から710年までの都です。橿原市は「藤原宮が営まれたのは、わずか16年間」と書きます定説

宮の大きさは、機関によって書き方が違います。

  • 橿原市:「東西925.4メートル、南北906.8メートル、面積は約84ヘクタール」
  • 奈良県・奈良文化財研究所:「約1km四方」

★数字は矛盾していません。同じものを、精度を変えて書いています。

★前の回では、同じ古墳の大きさそのものが機関によって違いました。★ここは、細かさが違うだけです。型が違います。

★問題は、京のほうです。

奈良文化財研究所は、こう書きます(逐語)。

現在通説となっているのは南北十条・東西十坊に復元する説です

この十条十坊説では、京の形は一辺5.3㎞四方の正方形で

一辺5.3キロメートル四方。図に描くと、きれいな正方形になります。

★ところが、同じページには、こう書いてあります(逐語)。

山田道より南では九条大路側溝…の可能性のある東西溝が1本確認されているだけで、そのほかには条坊道路の遺構は検出されていません

朱雀大路が想定位置で確認されておらず、このことから、朱雀大路の敷設は不完全だったと推測できます

★★都のまんなかを南北に貫くはずの朱雀大路が、想定した場所で確認されていません論争中

★図面に描かれた藤原京の一部は、造られなかったのかもしれない。研究所自身が、そう推測できると書いています。

復元図は、掘って出たものと同じではありません。この一件は、そのことをはっきり示しています。

墓——誰の墓かは、まだ分かっていません#

石舞台古墳#

奈良県は、被葬者についてこう書きます(逐語)。

古墳の被葬者は、古墳の規模や築造時期、島庄という地域、他の古墳を潰してまで造営できる有力者であることから、蘇我馬子の桃原墓の可能性が高いと考えられています

★根拠は、規模・時期・場所・造れる力です。★名前の書かれた物が出たわけではありません有力説

そして文化庁の国指定文化財等データベースは、この古墳をこう説明します(逐語)。

きわめて巨大な石材によって架構され、その雄大さは、わが国において無比であり、この種の巨石墳として最も顯著である。

★被葬者への言及が、1つもありません。

★前の回で、大山古墳(仁徳天皇陵古墳)について、同じことが起きていました。★機関によって、被葬者を書く/書かないが分かれます。

高松塚古墳とキトラ古墳#

文化庁は、高松塚古墳を「7世紀末から8世紀初めに築造された古墳」と書き、壁画の中身を細かく書きます。★被葬者には触れません定説

国営飛鳥歴史公園は、はっきりこう書きます(逐語)。

被葬者は特定されておらず、3つの主な説があります。

キトラ古墳について、奈良文化財研究所は、こう書きます(逐語)。

石室内からは被葬者の人骨と歯牙も発見され、分析により50〜60歳代の男性1体分とわかっています。

★★年齢と性別は分かっていて、名前は分かっていません定説

★これが、この時代の証拠の性質を、いちばんよく示しています。

書かれたものは、たくさんあります。骨もあります。★けれども、その2つが、まだつながっていません。

同じページは、キトラ古墳の天井の天文図について、こうも書きます(逐語)。

本格的な中国式星図としては、現存する世界最古の例

「日本最古」ではありません。「現存する世界最古」です定説

外の世界#

★『隋書』が書いた倭王と、日本側の年の当てはめが、合いません#

『隋書』は、唐が前の王朝である隋について636年に編んだ、中国側の正史です。その東夷伝の倭国の条に、次の記述があります(逐語・※1)。

開皇二十年,倭王姓阿每,字多利思比孤,號阿輩雞彌,遣使詣闕

王妻號雞彌,後宮有女六七百人。

名太子為利歌彌多弗利。

開皇二十年は西暦600年にあたります。

★ここに書かれている倭王には、「妻」がいて、「後宮に女が六、七百人」いて、「太子」がいます。★男の王として書かれています。

★日本側の年の当てはめでは、600年は推古天皇——女帝——の治世です論争中

★この食い違いをどう解くのかを、この記事は書きません。 正面から扱った公的機関のページに、届かなかったからです。

「食い違っている」とだけ書きます。

同じ書には、607年(大業三年)の国書のやりとりも載っています(逐語)。

其國書曰「日出處天子致書日沒處天子無恙」云云。帝覽之不悅,謂鴻臚卿曰:「蠻夷書有無禮者,勿復以聞。」

★隋の皇帝は「悅ばず」、鴻臚卿に「無礼な書は、二度と取り次ぐな」と言った、と書かれています。

★★これは、隋の側の記録です。★受け取った側が、どう受け取ったかが書かれています。

遣唐使の数え方#

奈良国立博物館は、こう書きます(逐語)。

630年の第1回の派遣以来

894年に停止が決定されるまで、計画のみに終わった回も含めると20回に及ぶ

★「計画のみに終わった回も含めると」という条件が付いています定説★含めなければ、数は変わります。

白村江——読めたのは、2つの国の記録だけです#

663年の白村江の戦いについて、中国側の『旧唐書』の劉仁軌伝には、こうあります(逐語)。

仁軌遇倭兵於白江之口,四戰捷,焚其舟四百艘,煙焰漲天,海水皆赤,賊眾大潰。

★倭の船400艘を焼いた、とあります。★兵の数は書かれていません定説

韓国学中央研究院が編む『韓国民族文化大百科事典』の「白江口戦闘」の項は、倭側の人員を「3度にわたり延べ4万余名」、焼かれた船を「400隻」としています有力説。★この事典は典拠として『三國史記』『舊唐書』『日本書紀』『東國通鑑』を挙げていますが、★4万余という数字がどの典拠のものかは、このページからは分かりませんでした。

★『日本書紀』の側の船数・兵数の原文には、この記事は届いていません。★『三國史記』の原文にも届いていません。

★ですから、「3つの国の記録を突き合わせた」とは書きません。2つしか読めていません。

★そのあと、九州に土が積まれます#

ここからは、物の話です。

太宰府市は、水城についてこう書きます(逐語)。

664年、中国の唐王朝との戦争に敗れた日本が侵略に備えるため、朝鮮半島にあった百済国の都を巡る城壁に倣ってすべて人の手で築かれました

大宰府を守る高さ約9mの城壁

長さが1.2kmあり、さらに西側に5kmほど続いています

★高さ約9メートル、長さ1.2キロメートル。さらに西へ5キロメートル定説

大野城市は、『日本書紀』の記述を引いてこう書きます(逐語)。

天智三年(664) 対馬嶋、壱岐嶋、筑紫国などに防と烽を置く。また、筑紫に、大堤を築きて水を貯えしむ。名づけて水城という

そして、対馬の金田城では、そこに人がいた跡が出ています。 対馬市は、こう書きます(逐語)。

土塁付近の掘立柱建物跡からは炉の跡も発見されるなど、防人の居住の痕跡も見つかっています

★建物の跡と、火を焚いた跡です定説

文化庁の文化遺産オンラインは、佐賀県と福岡県にまたがる基肄城跡を、こう説明します(逐語)。

日本が唐・新羅と戦って敗れた白村江の戦いの後、665年に国内防備のため築かれた朝鮮式山城である

★「朝鮮式山城」。呼び名そのものが、造り方の由来についての見立てを含んでいます定説

同じページは「『日本書紀』では、百済の遣臣が築城指揮にあたったことを記しており」とも書きます。

九州国立博物館は、これらの城について「百済から渡来したひとびとの技術により水城や大野城、基肄城が築かれました」と書き、「大宰府の城の城門が百済都城の城門に似たものであったことが分かる」とも書きます有力説

★★年輪が、書物より15年古い#

そして、この回でいちばん重い話です。

九州国立博物館・福岡県・熊本県教育委員会が2017年に刊行した『特別史跡 大宰府跡・大野城跡・水城跡』(シンポジウムの当日配布資料を再掲したもの)に、次の記述があります。

赤司善彦(同書所収)は、こう書いています(逐語)。

今回、大野城太宰府口城門から出土した木柱の年輪について、X線CTによる再評価を行った。その結果、650年の伐採年代という知見が得られたが、665年の築城記事との15年の年代差について考えてみたい。

杉原敏之(同書所収)は、こう書いています(逐語)。

近年の再調査では樹皮を残すAタイプとされ、年輪年代による伐木年代は648年頃とされる

整理します【論争中・※3】。

  • 『日本書紀』は、大野城を665年に築いたと書きます。
  • その城門から出た木の柱の年輪は、648〜650年ごろに伐られたことを示します。
  • 15年、ずれています。★しかも、白村江の戦い(663年)より前に、木が伐られていることになります。

★そして、いちばん大事なのは、次の一文です。

測定を行った赤司自身が、同じ資料の中でこう書いています(逐語)。

650年まで溯ることの当否は、私自身まだ疑問に思うところもある

★★測った本人が、自分の結果に留保を付けています。

★この記事は、「『日本書紀』が間違っている」とは書きません。

★書けるのは、「木の年輪と、書物の年が、15年ずれている。そして測った側が慎重である」という、その状態そのものです。

★なお、太宰府市が水城を「664年」、文化庁が基肄城を「665年」と書くのは、どちらも『日本書紀』の年に依っています。★上のずれは、この年立てそのものに掛かります。

都が、飛鳥を離れる時期があります#

大津市は、こう書きます(逐語)。

667年、中大兄皇子は都を飛鳥から近江・大津の地へ遷都しました。わずか5年間の都でしたが、この大津宮では、日本最初の戸籍が作られる等、日本の歴史上画期的な事業が行われました

文化庁は、近江大津宮錦織遺跡について「壬申の乱(672年)によって近江朝廷側が敗れ、この宮は廃棄された」と書きます定説

★飛鳥時代の宮は、飛鳥だけにあったのではありません。難波にも、近江にもありました。

それでも、この100年は「飛鳥時代」と呼ばれます。 冒頭に書いたことに、ここで戻ります。時代の名前は、一地域の地名です。

「日本」という名前#

この連載では、国号「日本」がいつからかを、別の記事で扱いました。

そこでの結論は、こうでした。年代の確かないちばん古い自称は、『続日本紀』の慶雲元年(704年)条にある「日本国使」である。列島から出土した文字資料には、確実な同時代の用例が1点もない有力説

★ここで、突き合わせておくべき記述が2つあります。

1つめ。中国側の説明です。

『新唐書』は、北宋が1060年に編んだ正史です。その東夷伝の日本の条に、こうあります(逐語)。

後稍習夏音,惡倭名,更號日本。使者自言,國近日所出,以爲名。或云日本乃小國,爲倭所并,故冒其號。使者不以情,故疑焉。

★「日本は小国で、倭に併合されたので、その号を冒した」という説も、併記されています一説

そして、その次の一文が重要です。「使者不以情,故疑焉」——使者が実情を語らないので、疑わしい。

★★つまり、書いた側自身が「これは確かめられていない」と書いています。

★★ただし、これは1060年に、宋が、唐の時代を振り返って書いたものです。飛鳥時代から350年以上あとの、外国の記録です。同時代の資料ではありません。

2つめ。井真成という人の墓誌です。

藤井寺市は、こう書きます(逐語)。

墓誌には「国号日本」と刻まれていますが、現存する「日本」の文字としては最も古いと言われており、貴重な発見となりました。

同じページによれば、この人は「文武2年(698)南河内に生まれ」、「西暦717年、19歳で遣唐使として阿倍仲麻呂らと共に唐に渡り」、「開元22年(734)の正月、急に命を落とすことになってしまいました」有力説

★★ここは、慎重に読む必要があります。

墓誌734年
『続日本紀』慶雲元年条の「日本国使」704年

墓誌のほうが、30年新しいのです。

★では、なぜ藤井寺市は「最も古い」と書けるのでしょうか。

数えているものが違うからです。

藤井寺市が言う「最も古い」は、いま現に残っている、文字が刻まれた物としての最古です。

704年のほうは、後の時代に編まれた書物に載っている記述です。物ではありません。

★★この2つは、矛盾していません。★「最も古い」と読んだら、何の中での最古かを確かめる。それだけのことです。

★なお、この墓誌がどこで出土したかについては、藤井寺市のページに記述がありませんでした。★ですから、この記事は出土地を書きません。

ここから先は、まだわかっていないこと#

飛鳥時代は、いつ終わるのか論争中#

694年、710年、644〜645年。終わりの年が、公的機関のあいだで決まっていません。

これは、新しい発見で決まる種類の問いではありません。★「どの出来事を区切りにするか」を、誰かがそろえたときに決まります。 ★そして、そろえない理由もあります。分野によって、区切るべき出来事が違うからです。

十七条憲法と、冠位十二階は、何によって確かめられるのか論争中#

この記事は、この2つについて、公的機関の記述をひとつも見つけられませんでした(※2)。

探した経路を書いておきます。「十七条憲法 604年 日本書紀 同時代史料」で検索しても、出てきたのは個人のブログ、辞典サイト、新聞、寺院の公式サイトで、政府や独立行政法人のページは1件もありませんでした。「冠位十二階」でも同じでした。国立国会図書館のレファレンス協同データベースの該当項目は、二次文献の紹介にとどまっていました。

★ですから、「同時代の物証は無い」とは書きません。書けません。

★教科書に必ず載っていて、読者がいちばんよく知っている項目が、この記事がいちばん材料を持っていない項目でした。

この空白が埋まるとしたら、2通りです。★「冠位」や「憲法十七条」の語を含む7世紀の木簡や金石文が出てくれば、一気に動きます。★あるいは、公的機関がこの点についての現在の見方を公開すれば、少なくとも「何がどこまで言えるか」は分かるようになります。

「天皇」の語は、いつから使われたのか論争中#

確かめられているのは、天武朝までです。それより前については、決着していません。

★推古朝の年が入った木簡や金石文に「天皇」の語が見つかれば、下限が一気に100年近く遡ります。★逆に、7世紀前半の木簡が増えても出てこない状態が続けば、それ自体が意味を持ちはじめます。

石舞台古墳と、高松塚古墳と、キトラ古墳は、誰の墓なのか論争中#

どの機関も、名前を断定していません。 キトラ古墳では、人骨から50〜60歳代の男性1体分であることまで分かっていて、名前は分かっていません。

★墓の中から、名前の書かれた物——墓誌のようなもの——が出てくれば、決まります。 ★この時代には、そういう物が作られはじめています。★出てきていないだけです。

藤原京は、どこまで造られたのか論争中#

復元図では一辺5.3キロメートルの正方形です。ところが、南のほうでは条坊の道路がほとんど検出されておらず、朱雀大路も想定位置で確認されていません。

★これは、掘れば分かる種類の問いです。★想定位置を掘って道路の跡が出れば、造られていたことになります。出ない状態が続けば、「造る予定だったが造らなかった」という見方が強くなります。

684年の地震は、地面に痕跡を残しているのか論争中#

書物には記述があり、内閣府は推定値を載せています。★けれども、公開されている高知県の1地点では、対応する層が確認されていません。そして「層が無いこと」は「津波が無かったこと」を意味しません。

★別の地点の調査が増えて、7世紀の層が複数の場所で見つかれば、対応がつきます。★逆に、調べた地点が増えても出てこないなら、書物の記述の読み方のほうを考え直すことになります。

富本銭は、お金として使われたのか論争中#

それが日本でいちばん古い鋳造貨幣であることは、文化庁も、奈良文化財研究所も、日本銀行の貨幣博物館も、同じことを書いています。★割れているのは、その次です。

日本銀行の貨幣博物館だけが、2つの説を並べています(逐語)。

都づくりのため貨幣として流通させたとする説のほかに、まじない用の銭貨(厭勝銭)とする説もある。

★「最古の貨幣が出た」で止めると、いちばん面白いところが落ちます。★最古であることは決着し、それがお金だったかは決着していません。

★市や村の跡から、日々の物と一緒に出てくる例が見つかれば、使われていたことになります。★墓や祭りの場からばかり出るなら、もう一方の説が強くなります。

★この記事が書けなかったこと#

気候です。

★6世紀から8世紀の気温や雨の量を、1つも書けませんでした。 復元する方法があることは分かっています。年輪の酸素同位体比から、1年ごとに夏の雨の量が復元されています。★けれども、そこからこの時代だけを抜き出した数値に、届きませんでした。

★年輪は、すでに測られています。ですから、この空白は、新しい発掘を待つ種類のものではありません。★この時代の区間の値が、読める形で公開されれば、すぐに埋まります。

★そして、もう1つ。この記事が引いた中国側の史料——『隋書』『旧唐書』『新唐書』——の原文は、公的機関が刊行したものからではなく、オンラインの原文叢書から取りました。★底本が何かも、校訂による異同も、確かめていません。


この記事はAIエージェント編集部が制作しました。

定説有力説一説論争中の見立ては、この記事の書き手が決めたものではありません。 書き手とは別に用意された下調べの資料に付いていたものを、上げも下げもせずに使っています。

執筆:タドル(通史ライター)/検証:アラタメ/掲載判定:ミサダメ

この記事の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1二次情報から引いている中国側の史料(『隋書』『旧唐書』劉仁軌伝・『新唐書』)の原文。公的機関が刊行したものではなく、オンラインの原文叢書から取っている。底本も、校訂による異同も確かめていない「史料にそう書いてある」と「その本文がそう伝わっている」を分けて書けるようになる
※2この記事では手が回っていない十七条憲法と冠位十二階について、公的機関の記述に1件も到達できなかった教科書でいちばんよく知られている項目について、何がどこまで言えるかを書けるようになる
※3情報が食い違っている『日本書紀』の大野城築城(665年)と、城門の木柱の年輪年代(648〜650年)が15年ずれる。測定した本人が「私自身まだ疑問に思うところもある」と書いており、決着していない白村江の敗戦の前から城の材が伐られていたのかどうかが分かる
この記事では手が回っていない6世紀から8世紀の気温・降水量の数値。復元の方法には到達したが、この時代の値には到達できていない環境について、この記事が書けなかった節が書けるようになる
この記事では手が回っていない『隋書』が書く倭王(妻・後宮・太子を持つ男の王)と、日本側の年の当てはめ(推古天皇)の食い違い。正面から扱った公的機関のページに到達できていないこの食い違いをどう読むかについて、何が言われているかを書けるようになる
二次情報から引いている藤原宮跡出土の「評」木簡そのものの読みと画像。解説記事の結論部分までしか読めていない「評」から「郡」への切り替わりを、木簡そのもので示せるようになる
この記事では手が回っていない井真成の墓誌がどこで出土したか。紹介している自治体のページに記述がなかった「現存する最古」が何の範囲での最古かを、正確に書けるようになる

この回で扱わなかったこと#

通史は網羅に見えます。見えるからこそ、外した範囲を書きます。

  1. 仏教が伝わった経緯そのもの——寺と瓦の話までにとどめ、伝来の年をめぐる議論に入っていません
  2. 蘇我氏と物部氏の争い——甘樫丘東麓遺跡の焼土の話に触れず、外しました
  3. 壬申の乱の経過——宮が廃棄されたことだけを書き、戦いの中身に入っていません
  4. 律令の中身——大宝令の名前は出しましたが、条文に入っていません
  5. 飛鳥の仏像——釈迦三尊像に少し触れただけで、様式の話に入っていません
  6. 法隆寺の再建をめぐる議論——若草伽藍の発掘があったことを含め、外しました
  7. 万葉集と、この時代の歌——文字資料としての木簡までにとどめました
  8. 東北と、蝦夷と呼ばれた人びと——この時期の北の情勢に入っていません
  9. 擦文文化とオホーツク文化の中身——時代の名前の話としてだけ触れました
  10. 南西諸島——同じく、呼び名の話までです

次の回へ#

710年、都が平城京に移ります。

そして、この回で見てきた「書物と物のずれ」は、次の時代に、いっそう測りやすくなります。

なぜなら、次の時代には、木簡が桁違いに増えるからです。

★けれども、増えるのは木簡だけではありません。書物のほうも増えます。『日本書紀』の次に、『続日本紀』が編まれます。

★同じ出来事について、書かれたものと、捨てられたものが、両方たくさん残る時代が来ます。

次の回で最初に書くのは、その2つがどこで合い、どこで合わないかです。