年表
この媒体の記事で確かめた年だけを並べた年表です。
ふつうの年表と、決めごとが3つ違います
1つ目。載っている年は、すべて記事で扱った年です。この年表のために新しく調べた年は、1つもありません。だから歴史のすべては載っておらず、この媒体がどこまで確かめてきたかが、そのまま年表の形になっています。空白は、これから記事が書かれるたびに埋まっていきます。
2つ目。割れている年は、割れたまま載せています。弥生時代の始まりのように、公的機関のあいだで約500年ひらいている年もあります。1つに丸めた瞬間、年表は実際よりも確かに見えてしまうからです。
3つ目。それぞれの年に「どうやって知ったか」を添えています。掘って測った年。その時に書かれた札の年。後の書物が伝える年。同じ「年」でも、確かめられ方は同じではありません。年表は年号の暗記表ではなく、年の確かめられ方の一覧だと、この媒体は考えています。
測られた年——文字が残らない時代
| 時代 | 年 | 出来事 | どうやって知ったか | 記事 |
|---|---|---|---|---|
| 旧石器 | 約3万年前 | 台湾から琉球の島々へ、人が海を渡ったとされる時期 「渡れた」と「渡ろうとした」は別の問いのまま | 測定(遺跡の年代)。渡り方は2019年の実験航海で「渡れる」ことだけ確かめられた | 3万年前、丸木舟は本当に黒潮を越えた 通史① 旧石器時代 |
| 縄文 | 約15,000〜16,500年前 | 最古級の土器(大平山元Ⅰ遺跡)。縄文時代の始まりとされる 世界遺産の公式説明は約15,000年前と書く。区切りの定義そのものが決まっていない | 測定(土器に付いた炭化物の炭素年代) | 通史② 縄文時代 |
| 縄文 | 約7,250年前 | 鬼界カルデラの巨大噴火 暮らしへの影響は「壊滅」と「継続」の2通りに書かれている | 測定(火山灰の層の年代) | 壊滅と継続 通史② 縄文時代 |
| 縄文 | 約7,000年前/約6,000年前 | 縄文海進——海がいまより高かった時期の頂点 時期も高さ(2〜3m/4〜6m)も、機関のあいだで割れたまま | 測定(貝塚の場所と地層) | 通史② 縄文時代 |
| 縄文→弥生 | 前10世紀/約2,400年前 | 水田稲作の始まり(弥生時代の始まり) 公的機関のあいだで2つの年代観が併存している | 測定(炭素年代)と土器の型式。方法が違うと約500年ずれる | 通史③ 弥生時代 弥生時代、人は入れ替わったのか |
札と書物の年
| 時代 | 年 | 出来事 | どうやって知ったか | 記事 |
|---|---|---|---|---|
| 弥生 | 57年 | 倭の奴国の使いが後漢へ。印を授かったと史書が書く 印と57年の記事を結びつけたのは、後世の考証 | 後の書物(『後漢書』・5世紀成立)+物(金印・1784年出土) | 金印は、いつから「57年の印」になっ |
| 古墳 | 266年 | 倭の女王(台与とされる)が西晋に朝貢。ここで中国側の記録が途切れる いわゆる「空白の4世紀」の入口 | 後の書物(『晋書』) | 「謎の四世紀」は、4世紀ではない 3分でわかる|「謎の四世紀」 |
| 古墳 | 413年/421年 | 倭の遣使が再び中国側の記録に現れる 空白が明ける年は、史料の読み方で2つに割れている | 後の書物(『晋書』は413年、『宋書』は421年) | 「謎の四世紀」は、4世紀ではない |
| 飛鳥 | 592年 | 推古天皇の即位。飛鳥時代の始まりとされる 終わりのほうは645年・694年・710年の3通りで語られる | 後の書物(『日本書紀』) | 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 607年 | 隋への国書のやりとり(大業3年) 日本側の年の当てはめとの突き合わせには課題が残る | 後の書物(『隋書』——相手側の、同時代に近い記録) | 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 645年 | 乙巳の変 政変を書物の外から確かめられるかは、それ自体がまだ開いた問い | 後の書物(『日本書紀』) | 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 646年 | 「改新の詔」が出たとされる年 詔の文言は、そのままの形では存在しえなかったことになる | 後の書物。ただし詔の文言の「郡」は、木簡が示す当時の用語「評」と食い違う | 荷札は、書き直されない 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 664年 | 水城を築く 高さ約9メートル・長さ1.2キロと説明される。★平城京への遷都より46年早い | 後の書物(『日本書紀』天智3年条)。現地に遺構が残る | 通史⑤ 飛鳥時代 幅6メートルの壁と、太さ12センチの |
| 飛鳥 | 665年 | 大野城の築城とされる年 測った本人が「まだ疑問に思うところもある」と書いており、割れたまま | 後の書物。ただし城門の木柱の年輪年代は648〜650年で、15年ずれる | 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 677年 | 「三野国刀支評」の木簡(飛鳥池遺跡)。現場は「評」と書いていた | その時の文字(木簡) | 荷札は、書き直されない |
| 飛鳥 | 694年 | 藤原京へ遷都 「飛鳥時代の終わり」の区切りの1つ | 後の書物 | 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 飛鳥 | 697年 | 「評」と書かれた塩の荷札(藤原宮跡・丁酉年) | その時の文字(木簡・画像が公開されている) | 荷札は、書き直されない |
| 飛鳥 | 701年 | 大宝令の施行。「評」が「郡」に変わる 木簡が正史の文言を正した一件の、要の年 | その時の文字(木簡で切り替えが確認された)+後の書物 | 荷札は、書き直されない 通史⑤ 飛鳥時代 |
| 奈良 | 710年 | 平城京へ遷都 | 後の書物+その時の文字(「和銅三年正月」の木簡が遷都2か月前の宮を示す) | 通史⑥ 奈良時代 3分でわかる|平城京には、何人住んで |
| 奈良 | 712年 | 『古事記』が成立したとされる年 『日本書紀』とあわせて、いま読める最古級の歴史書 | 後の書物(本自身の序の日付による) | 歴史書は、なぜ滅んだ国のぶんまで残っ |
| 奈良 | 720年 | 『日本書紀』完成 646年の詔を、74年後に「郡」の字で書いた本 | 後の書物 | 歴史書は、なぜ滅んだ国のぶんまで残っ 荷札は、書き直されない |
| 奈良 | 724年 | 多賀城の創建 ★四方とも囲われている。平城京への遷都の14年後 | 後の書物+現地の遺構(一辺1キロ前後を築地塀と材木塀で囲う) | 幅6メートルの壁と、太さ12センチの |
| 奈良 | 729年 | 長屋王の変 その場で書かれる札は、一度きりの大事件を書かない | 後の書物(『続日本紀』の系統のみ)。邸宅跡の木簡3万5千点は、政変の13年以上前で止まる | 荷札は、書き直されない |
| 奈良 | 735〜737年 | 天然痘とみられる疫病が広がる | 後の書物 | 通史⑥ 奈良時代 3分でわかる|平城京には、何人住んで |
| 奈良 | 741年 | 諸国に寺を建てるよう命じる詔 ★命じた年であって、建った年ではない。 詔の月日を書いた公の機関の記述には届いていない | 後の書物 | 通史⑥ 奈良時代 詔が出た年に、寺は建っていない |
| 奈良 | 743年 | 大仏造立の詔 | 後の書物+機関の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か 通史⑥ 奈良時代 |
| 奈良 | 752年 | 大仏開眼供養(1回目) 開眼供養は752年・1185年・1692年の3回ある | 後の書物+寺の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
| 奈良 | 753年 | 鑑真が日本に着く 坐像は、いま見えているものがそのまま8世紀の作とされる | 後の書物 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
| 奈良 | 756年頃 | 豊後国分寺が、ほぼ完成していたとみられる年 ★詔から15年後。 伊予は756〜766年の間、出雲は760年代とされる。割れているのではなく、国ごとに違う | 物(出土した瓦の型式からの推定) | 詔が出た年に、寺は建っていない |
| 奈良 | 764年 | 藤原仲麻呂の乱 | 後の書物+物(百万塔——乱の後、764〜770年の製作とされる) | 通史⑥ 奈良時代 |
| 奈良 | 774年 | 「郡」と書かれた塩の荷札(宝亀5年・紀伊国日高郡) 697年の「評」の荷札と対で、切り替えの前後を実物で挟める | その時の文字(木簡) | 荷札は、書き直されない |
| 奈良 | 784年/794年 | 都が平城京を離れる(784年・長岡京)/平安京へ(794年) 奈良時代の終わりは、どちらの区切りを選ぶかで2通り。長岡京は10年だけの都 | 後の書物。長岡京を掘っている機関は「784年(延暦3年)11月11日」「794年(延暦13年)10月22日」と日付まで書くが、何の史料によるかは書いていない | 通史⑥ 奈良時代 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 802年 | 坂上田村麻呂が胆沢城を造る 一辺は「1辺約670メートル」とも「一辺675m」とも書かれ、同じ市の2つのページで丸め方が違う | 後の書物+現地の遺構(木簡・暦や兵士の記録を記した漆紙文書が出土) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 808年まで | 軍政の役所(鎮守府)が多賀城から胆沢城へ移る 10世紀の後半ごろまで機能したとされる | 後の書物+機関の記述 | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 811年 | 志波城を拠点に爾薩体・幣伊の戦い。同年末、水害を理由に城の移転が決まる 志波城の存続は約10年。「38年戦争」は市のページの呼び名 | 機関の記述(盛岡市)。何の史料によるかは書かれていない | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 813年 | 最澄が弟子の泰範に宛てて書状を書く。現存する唯一の最澄自筆書状 空海の自筆草稿も残るが、その86行分は1923年の大正大震災で焼けた | その時の文字(自筆の現物) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 820年ごろ | 海の底の堆積物からの気温推定が、1300年間で最高(25.9℃)とする時期 木の年輪の研究は同じ9世紀を「数十年周期の振れが大きい」世紀と呼ぶ。測っているものが違う。2つは2つのまま | 測定(海底堆積物) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 840年 | 『日本後紀』完成(792〜833年を扱う) 全40巻のうち現存10巻。 どの10巻かには届いていない | 機関の解説(国立公文書館) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 842年 | 承和の変。7月17日に「謀反」が発覚、26日に皇太子恒貞親王を廃す 歴史書の条文そのものには当たっていない。なぜ「謀反」とされたかは綱文に無い | 後の書物(『続日本後紀』)を自治体の資料集が編んだ綱文 | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 864年 | 富士山の貞観噴火。溶岩が「ふもとの湖にも流れ込み」、その溶岩の上にいまの青木ヶ原樹海がある 書物と地面の両方がある年 | 後の書物(『日本三代実録』)+地面(溶岩の地質調査) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 866年 | 応天門の火災(閏3月10日)。9月22日、放火の罪で大納言伴善男を伊豆へ配流 後始末は875年(没官領の転用)まで10年続く。「誰が仕組んだか」は綱文にも抄にも無い。歴史書の本文は9月22日条の抄1条だけで、閏3月10日条には当たっていない | 後の書物(『日本三代実録』)から自治体史と対外交流の年表が編んだ綱文8条+歴史書の本文の抄1条(9月22日条・編纂所が抜き書きしたもの)+300年後の絵巻(伴大納言絵巻) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 869年 | 貞観地震と津波。書物は溺死者千人と書き、地面は当時の海岸から3〜4km内陸まで砂を残す 「千人」は書物の数、砂は地面の事実。そこに人が住んでいたかは別の問い | 後の書物(『日本三代実録』)+地面(津波堆積物) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 869年 | 『続日本後紀』完成(833〜850年を扱う・筆頭の撰者は藤原良房) | 機関の解説(国立公文書館) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 879年 | 『日本文徳天皇実録』完成(850〜858年を扱う・筆頭の撰者は藤原基経) | 機関の解説(国立公文書館) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 887年 | 六国史の最後の1本『日本三代実録』が、8月で記述を終える 完成は901年。その次の国史は「完成を見ずに終わった」 | 機関の解説(国立公文書館) | 通史⑦ 平安時代 前期 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 901年 | 『日本三代実録』完成。同年正月、菅原道真が大宰権帥に左遷される 「藤原時平らの謀略で」は機関の言葉で、典拠は確かめていない | 機関の解説(国立公文書館) | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平安 | 905年 | 『延喜式』の編集が始まる 完成年・施行年には届いていない | 機関の解説(文化遺産オンライン) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 915年 | 十和田火山の噴火。7月13日、出羽で灰が二寸積もり、農作物が枯れる 4つの独立した手がかりが同じ年を指す。 書物はどの山かを書いておらず、山を決めたのは地面 | 後の書物(『扶桑略記』裡書)+地面(灰の層の位置・埋まった柱の年輪・埋まった木の表皮) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 940年 | 平将門の死。2月25日、信濃からの早馬が京に伝える 死んだ日は「13日」(『日本紀略』の奏文・『浄蔵法師伝』)と「14日」(『扶桑略記』——13日に攻め、14日の未の刻に死んだと書く)で、史料の側が割れたまま。 編纂所は14日の条に立てているが、何に従ったかは確かめていない | 後の時代に編まれた歴史書(『日本紀略』に収められた奏文・史料編纂所の刊本を機械で読んだ)+後の書物(『扶桑略記』ほか) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 969年 | 安和の変。3月25日に謀反の密告、翌26日に左大臣源高明を大宰権帥に 綱文と歴史書の本文で人の名の字が違う(敏延/繁延)。官名も綱文「大宰権帥」・本文「大宰員外帥」で違う。なぜ密告が起きたかは、綱文にも本文にも書かれていない | 綱文+後の時代に編まれた歴史書(『日本紀略』・史料編纂所の刊本を機械で読んだ) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 998年 | 藤原道長が、金峯山に納めるための経を自分で書く 埋めたのは9年後 | 物(経の奥書「長徳四年」) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 1007年 | 8月11日、道長が金峯山に経筒を埋める 日本最古の経筒とされる。書物・物・自筆が1つの日付で合う | 物(筒の銘「寛弘四年八月十一日」)+本人の自筆日記(『御堂関白記』・機関の解説が引く形) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 1018年 | 10月16日、藤原威子の立后の夜、道長が「望月の歌」を詠む 道長本人がその日、自分の日記に何を書いたかは当たっていない | 同席した人の日記(藤原実資『小右記』・史料編纂所のデータベースの翻刻) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 1051〜1062年 | 前九年合戦。1062年9月、厨川柵・嫗戸柵が落ちて終わる 厨川柵は1189年の『吾妻鏡』に「曩時佳例」として出てくる | 機関の解説(文化庁の史跡指定解説) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1053年 | 宇治に阿弥陀堂(いまの鳳凰堂)が建ち、定朝の阿弥陀如来坐像が納められる 「鳳凰堂」の名は1670年ごろから。1670年に扉、1967〜72年に鳳凰・梵鐘・扉の絵が取り替えられている | 機関の解説(文化庁・平等院)+現存する建物 | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 1083〜1087年 | 後三年合戦。1087年12月26日、源義家が平定を奏す 「後三年」は鎌倉時代末期に付いた名。「役」か「合戦」かは割れたまま。 金沢柵・沼柵の場所は「確定されていません」(横手市) | 綱文+機関の解説(文化庁) | 通史⑧ 平安時代 中期 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1086年 | 11月26日、堀河天皇の受禅。関白師実を摂政とし、上皇の役所(院司)に職員を任命 後の世が「院政の始まり」と呼ぶ日。この日の綱文にも、そこに引かれた記録のうち記事が読んだ箇所にも、「院政」の語は無い | 綱文 | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1087年 | 鳥羽殿の南殿が造営される(上皇の御所) 広さは3つの機関で3通り(約100ha/約180万㎡/約120ha) | 機関の解説(文化庁) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1096年 | 大きな地震(嘉保・永長) 1099年の南海地震が実在したかは、論文自身が「作業仮説」と呼ぶ段階 | 研究論文(歴史地震研究会) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1099年 | 『将門記』の、いま読める最古の写し(承徳3年写・大須観音宝生院) 乱から約160年後の写し。『古事記』の最古の写しを伝えたのと同じ寺 | 物(写本)。名古屋市博物館の出品目録による | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 平安 | 1124年 | 中尊寺金色堂が上棟される 「建立」と書く機関と「上棟」と書く寺がある。上棟は完成の年とは限らない | 機関の解説(岩手県・中尊寺) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1156年 | 保元の乱。7月2日に鳥羽法皇が没し、11日、清盛と義朝が白河殿を攻めて落とす 日記の書き手は11日の時点で結末を知らない(「今日不分明」)。ただし残っているのは信範が晩年に自分で清書した本とその写しで、清書のとき本人が何も改めなかったかは判定できない。法皇の死から9日 | 同時代の日記(平信範『兵範記』・活字本を機械で読んだ)+綱文 | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1159年 | 平治の乱。12月9日に三条殿が焼かれ、27日に藤原信頼が六条河原で斬られる 『史料大成』の目録の上では、平治元年の記事は『兵範記』に無い(現存する全体とは突き合わせていない)。同時代の日記で書けず、日記ではない本で書く | 後の世の記録(『愚管抄』『百練抄』ほか)を編んだ綱文 | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1164年 | 平家一門が厳島神社に33巻の経を納める(平家納経) 清盛の手になる文が添えられている、と観光庁の英文の解説は書く | 物(経巻・国宝) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1167年 | 2月11日、平清盛が太政大臣に 同じ月の25日、清盛は厳島に詣でる | 綱文 | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1180年 | 8月17日、源頼朝が伊豆で兵を挙げる。同じ月、福原で皇居の造営が議される 都と地方の出来事が、同じ月の表に並ぶ | 綱文(筆頭の典拠は『山槐記』『玉葉』) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1180年 | 大仏殿はじめ伽藍の大半が焼失(平重衡の軍勢) 通史⑨は同じ年の挙兵と福原を扱うが、東大寺の焼失そのものには当たっていない | 寺の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
| 平安 | 1185年 | 3月24日、壇ノ浦の戦い。京の『玉葉』は27日に「實否未聞」、4月4日に「舊主御事不分明」と書く 壇ノ浦を自分の目で見た人の日記は無い。 4月4日は壇ノ浦から10日後。「崩じ」の語は、記事が読んだ範囲の『玉葉』に無い | 京で聞いた人の日記(九条兼実『玉葉』・九条本は「写, 鎌倉前期」・活字本を機械で読んだ)+1300年前後に成立したとされる幕府の歴史書(『吾妻鏡』) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 鎌倉 | 1185年 | 大仏開眼供養(2回目・重源の勧進による再建) | 寺の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
| 平安 | 1189年 | 9月3日、藤原泰衡が比内郡贄柵で郎従に殺される 1300年前後の幕府の歴史書は、前日の記事で1062年の厨川柵を「曩時佳例(昔の良い先例)」と書く | 綱文+後の書物(『吾妻鏡』・史料編纂所の刊本を機械で読んだ) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 平安 | 1192年 | 7月12日、源頼朝を征夷大将軍に任じる。25日、鎌倉で除書を受ける これを「幕府の成立」と呼ぶかどうかは定義の問題。 京の『玉葉』は、活字の本(国書刊行会本)ではこの月の記事が無い | 朝廷の記録(『公卿補任』)+幕府の記録(『吾妻鏡』)+綱文 | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 室町 | 1337年 | 中尊寺の火災。金色堂・その覆堂・経蔵の一部を除くほとんどの堂宇が焼失 中尊寺は金色堂を「中尊寺創建当初の姿を今に伝える建造物」と書く | 機関の解説(岩手県) | 通史⑨ 平安時代 後期 |
| 室町 | 1567年 | 三好・松永の乱で中心伽藍が再び焼失。以後、大仏は約120年間雨ざらし | 寺の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
| 江戸 | 1670年 | 宇治の阿弥陀堂が「鳳凰堂」と呼ばれるようになるころ。正面の扉が取り替えられる 建てた人は「阿弥陀堂」と呼んでいた | 寺の年表(平等院) | 通史⑧ 平安時代 中期 |
| 江戸 | 1692年 | 大仏開眼供養(3回目・公慶の全国勧進による再建) いま見える大仏の姿は、おおむねこの再建以後のもの | 寺の来歴の記述 | 「奈良の大仏」は、いつの大仏か |
確かめた側の年——知識が動いた年
| 時代 | 年 | 出来事 | どうやって知ったか | 記事 |
|---|---|---|---|---|
| 江戸 | 1784年 | 志賀島で金印が出土する(天明4年) 発見から現在までの伝来は、たどれていない | 発見の記録 | 金印は、いつから「57年の印」になっ |
| 大正 | 1923年 | 大正大震災で、空海の自筆草稿のうち86行分が焼失する 1200年残った紙の一部が、100年前に失われた | 機関の解説 | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 昭和 | 1954年 | 胆沢城の発掘調査が始まる(岩手大学など・昭和29年) 木簡・文字の記された土器・漆紙文書はこの調査以後に出た | 機関の記述 | 通史⑦ 平安時代 前期 |
| 平成 | 2000年 | 前・中期旧石器の捏造が発覚 失われたのは石器ではなく、出所の信用 | 現代の検証 | 日本列島の前期旧石器は、なぜ地図から |
| 令和 | 2019年 | 丸木舟で台湾から与那国島へ渡る実験航海が成功 確かめられたのは「渡れる」ことまで。「渡ろうとした」かは物証待ち | 実験 | 3万年前、丸木舟は本当に黒潮を越えた |
最終更新 2026-09-16。新しい年は、記事の側で確かめられてから、ここに足されます。