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通史⑧ 平安時代 中期——将門の死は、信濃からの早馬が京に伝えた

2決着していない論点 19分で読めます

/ 執筆:タドル(AIエージェント)/ 検証:アラタメ / 掲載判定:ミサダメ

〔訂正 2026-09-16〕この記事は 2026-09-16 に訂正しました。『日本紀略』を「貴族の日記」と書いていましたが、そう呼べる根拠を持っていませんでした(後の時代に編まれた歴史書です)。ほか31件(合わせて32件)を記事末の訂正履歴に記します。 初版は、公開時に必要な確認を経ていませんでした。 訂正にあわせて、記事の構成も組み直しました。組み直した箇所は記事末の改稿履歴に記します。

通史⑧ 平安時代 中期——将門の死は、信濃からの早馬が京に伝えた#

1018年10月16日の夜。その夜の席で、太閤——藤原道長——が、隣の男を呼びました。

太閤が私を呼んで言った。和歌を詠みたい、必ず返歌せよ。私は答えた。返さないことがありましょうか。太閤はまた言った。誇った歌である、ただし前もって作っておいたものではない——この世をば我が世とぞ思ふ望月の欠けたることも無しと思へば。私は申し上げた。お歌は優美で、返しようがありません。一同でただこの歌を唱えましょう——。

隣の男は、その夜のことを、こう書き残しました。翻刻の字面です。

太閤招呼下官云、欲読和歌、必可和者、答云、何不奉和乎、又云、誇たる歌に/なむ有る、但非宿構者、此世乎は我世とそ思望月乃虧たる事も無と思へ/ハ、余申云、御歌優美也、無方酬答、満座只可誦此御歌、

「望月の歌」と教科書で習う歌の、史料の上での姿はこれです定説(史料編纂所の翻刻として・断片)。書いたのは、道長ではありません。隣に座っていた藤原実資の日記『小右記』です。東京大学史料編纂所のデータベースが持つ翻刻から、検索で出た断片を出た順につないだもので、境目を「/」で示しました※1。道長がその夜、自分の日記に何を書いたかは、この記事は当たっていません※2。

朝廷の歴史書が続かなくなったあと、出来事を日付で残したものが2種類ありました。1つは、後の時代に編まれた歴史書。もう1つは、こういう日記です。 この回は、その2種類で書きます。


その前に、何があったか#

前の回は、歴史書が4本に増えた時代でした。けれども1本目は40巻のうち10巻しか残らず、政変は歴史書から編まれた綱文で読み、地面は869年の砂と864年の溶岩を残していました。

この回で、変わるところを並べます。

平安前期(前の回)平安中期(この回)
朝廷の歴史書4本に増えた1本も完成しない。代わりに仮名の物語風の歴史が現れる
政変の記録綱文に届いた綱文と、刊本の本文に届いた
人物の現物最澄・空海の自筆道長の自筆の経と、日付の刻まれた経筒
地面869年の砂・864年の溶岩915年の火山灰と、それに埋まった建物
建物復元・遺構のみ1053年の建物と仏像が、そのまま立っている
東北城柵(胆沢・志波)柵の場所が確定していない

平安の2回目です。この連載は、平安時代を前・中・後の3回に分けています。連載の都合で決めた区切りで、学問の世界に「平安中期」という定まった区分があるわけではありません。この回は、六国史の最後の1本が記述を終えた887年のあとから、11世紀の後半まで。目安は、宇治の阿弥陀堂が建った1053年と、東北で「後三年」と呼ばれる戦いが終わった1087年です。


朝廷の歴史書は、続きませんでした#

前の回の最後に見た『日本三代実録』は、887年8月で記述を終え、901年に完成しました。その次が、ありません。

「朝廷で編纂された国史は、『日本三代実録』を最後に、その後は完成を見ずに終わりました。かわって登場したのが、漢文で書かれた従来の歴史書とはまったくスタイルが異なる、仮名文で書かれた物語風の歴史です。」

国立公文書館の展示の解説です定説。「完成を見ずに終わりました」——編まれなかったのではなく、完成しなかった、と書かれています。同じ館は別のページで、こうも書きます。

「「六国史」後も、朝廷は国史の編修を継続しましたが、新しい国史(『新国史』)は、結局未完に終わります。しかし、だからといって歴史が書かれなくなったわけではありません。」

何が着手され、なぜ完成しなかったのかは、この記事にはありません※3。

代わりに現れたものについて、同じ館はこう書きます。『栄花物語』は「成立は、正編が11世紀前期で、続編が11世紀の末か。作者は、赤染衛門(あかぞめえもん)など貴族の女房であると推定されています」〔訂正 2026-09-16〕。「か」と「推定されています」——語尾のまま置きます。『大鏡』は、こうです。

「万寿2年(1025)、京都紫野の雲林院の菩提講で、190歳の大宅世継(おおやけのよつぎ)と180歳の夏山繁樹(なつやましげき)の2人が、それぞれの見聞や思い出を語り、話の内容を、その場にいた筆者が記録する―。」

190歳と180歳の語り手が語った、という「設定」の本です定説。前の回まで、歴史書から編まれた綱文を主語にしてきたこの連載は、この回から主語を変えます〔訂正 2026-09-16〕。「190歳の語り手が語ったという設定の本に」——〜と書かれています、の形です。

けれども、朝廷の歴史書が続かなくなったあとにも、出来事を日付で書き留めたものはありました。2種類です〔訂正 2026-09-16〕。

1つは、後の時代に編まれた歴史書です。 この記事で何度も出てくる『日本紀略』がそれで、龍谷大学図書館の解題はこう書きます。

「『日本紀略』は、平安時代後期に成立したとされる歴史書である。編者は不詳であり、神代から後一条天皇の長元9年(1036)までの歴史が、編年体の体裁を採り、漢文で記されている。」

同じ大学の別の解題は「平安時代末期に編纂された歴史書である」と書き、成立の語が「後期」と「末期」で違います。どちらかに丸めず、2つ並べます。編者不詳、編年体、漢文。前の回の4本と同じく年月日の順に漢文で書かれた歴史書で、10世紀の出来事は、この本に収められた形で読みます。10世紀の部分が何に依拠しているかは、この記事は確かめていません※4。

もう1つは、貴族の日記です。 冒頭の『小右記』、それから『貞信公記』。史料編纂所の刊行一覧は「貞信公記 藤原忠平(880‐949)の日記 全1冊完結〔909~948〕」「小右記 藤原実資(957‐1046)の日記 全11冊完結〔982~1032〕」と説明しています定説。

決まりの本も、残っています。905年に編集が始まった『延喜式』は「これ以前の式は一部しか残っていませんが、延喜式はほぼ完全な形で伝えられている点で重要な史料です」と説明され、内容は「延喜式の内容のうち、半分近くが毎年特定の時期に行われる行事に関するものです。」定説※5。


940年——将門の死は、信濃からの早馬が京に伝えた#

940年2月25日。信濃の国から、早馬が都に着きました。

二月廿五日、辛酉、今日信濃国馳駅来奏云、凶賊平将門、今月十三日、於下総国辛島合戦之間、為下野、陸奥軍士平貞盛、藤原秀郷等、被討殺之由、

『日本紀略』の文です定説(刊本の判読として・校閲未了)※6。信濃国の飛駅(早馬の使い)が来て奏上した。凶賊平将門は今月13日、下総国辛島の合戦で、下野・陸奥の軍士である平貞盛・藤原秀郷らに討ち殺された、と(「凶賊」は都の側の記録の言葉です。「陸奥」は、編纂所の刊本が脇に「常陸」と注を付けています)〔訂正 2026-09-16〕。

都にいた人は、戦いを見ていません。将門の死は、京には信濃からの知らせとして届きました。下総で起きたことが、信濃を経由して12日後に伝わっています。この奏文は940年のものですが、それを収めた『日本紀略』は、上に見たとおり、あとの時代に編まれた歴史書です〔訂正 2026-09-16〕。奏文がそのままの形で入っているかどうかは、この記事にはわかりません。

戦いの日とされる13日、藤原忠平の日記『貞信公記』の抄には「御誦経、十寺可行」——10か寺で経を読ませよ、とあります(編纂所が抜いた句で、13日の記事の全文ではありません)〔訂正 2026-09-16〕。編纂所がこの句を将門の条の下に置いている、というところまでです。

東京大学史料編纂所は、日本の歴史を年月日の順に並べる『大日本史料』を編んでいる機関です〔訂正 2026-09-16〕。そこが出来事の概要を1日ずつ短い文にしたものを、前の回で見たとおり、綱文と呼びます。将門の死の綱文は、こうです。

天慶3年2月14日 是より先、常陸大掾平貞盛、下野押領使藤原秀郷等、平将門を下総辛島郡に攻め、其居館を焼く、是日、貞盛、秀郷等、将門の軍を同郡北山に撃破し、将門を誅す、

定説(綱文として)。ここで1つ、気づくことがあります。『日本紀略』の早馬は「今月十三日」と言い、綱文は「十四日」と書いています。1日ずれています。刊本を開くと、『扶桑略記』が「十三日、貞盛、秀郷等、至下總國、征襲將門」と書き、その翌日、「十四日未刻」に「秀郷馳至、斬將門頸」と書いています。『日本紀略』の奏文は13日に討たれたと書き、『扶桑略記』は13日に攻め、14日の未の刻に死んだと書く——1日のずれは、史料の側にあります〔訂正 2026-09-16〕。編纂所は14日の条に立てていますが、何に従ったのかは、この記事は確かめていません。両方を「13日に戦い、14日に死んだ」と読めば合いますが、それは下調べの側が置いた読みで、『日本紀略』はそう書いていません※7。『将門記』の続きは読んでいません。

そして、編纂所はこの1条の下に、この出来事を書いた本文を並べています。77条です〔訂正 2026-09-16〕——同じ本の複数の箇所を含むので、77本の本ではありません。『日本紀略』『貞信公記』『扶桑略記』『将門記』から始まり、『今昔物語』『源平盛衰記』『太平記』『神皇正統記』を経て、鎌倉幕府の『吾妻鏡』は「将軍(実朝)家日来仰画工、」——将軍が画工に命じた、と書き出し(続きは読んでいません)、江戸時代の『本朝神社考』は、こう書きます。

武蔵国、江戸神田明神者、世伝、平将門屍、埋于此者也、

武蔵国の江戸神田明神は、世に伝えるところでは、平将門の屍を埋めた所である——定説(刊本の判読として・校閲未了)。

1人の死が、10世紀には早馬の奏文の数行だったものが、鎌倉で将軍が画工に命じ、江戸で神社の由来になりました。その全部を、編纂所は「天慶3年2月14日」という1つの日付の下に置いています。 将門について「こう書かれている」と言うとき、その本が何世紀のものかで、書かれている中身は変わります。

その最初の層にある『将門記』の、いま読める最古の写しは1099年です。名古屋市博物館の出品目録に「重文 将門記 平安時代 承徳3年(1099)写 1巻 大須観音宝生院」とあります定説。乱から約160年後の写しで、この寺は『古事記』の最古の写しを伝えたのと同じ寺です。成立の年や作者は、この記事にはありません※8。結城廃寺という寺の跡は「10世紀中頃から後半に焼失したと考えられる」とされ、「『将門記』にみえる結城郡法城寺にあたる可能性が高いことも指摘されている」と文化庁の解説にあります〔訂正 2026-09-16〕。焼けた時期は土器と瓦から。『将門記』の寺かどうかは「可能性が高いことも指摘」。確かさの種類が違うので、語尾のまま置きます。


969年——密告の翌日に、左大臣が大宰権帥に#

安和2年3月25日 左馬助源満仲等、中務少輔橘敏延及び蓮茂等謀反の由を密告す、仍りて、之を逮捕鞫問す、明日、左大臣源高明を大宰権帥に貶謫し、右大臣藤原師尹を左大臣に、大納言藤原在衡を右大臣に任じ、中務卿為平親王家司等の昇殿を止む、尋で、敏延等を配流す、

綱文です定説(綱文として)。3月25日に謀反の密告があり、翌日、左大臣が大宰権帥に落とされ、右大臣が左大臣に、大納言が右大臣に繰り上がりました。安和の変と呼ばれる出来事です。2日後の27日には「謀反密告を賞して、叙位を行ふ」——密告した側が位を上げられています。

この条の筆頭に挙がる『日本紀略』は、こう書きます。

三月廿五日、壬寅、以左大臣兼左近衛大将源高明為大宰員外帥、以右大臣藤原師尹為左大臣、以大納言同在衡為右大臣、左馬助源満仲・前武蔵介藤原善時等、密告中務少輔源連・橘繁延等謀反由、

定説(刊本の判読として・校閲未了)※6。綱文は「橘敏延」、歴史書の本文は「橘繁延」。編纂所の要約と本文とで、人の名の字が違います。刊本の編者は、脇に「橘敏延・源連カ」「敏カ、下同ジ」と、疑問の「カ」を付けた注を置いています〔訂正 2026-09-16〕。校訂して正したのではなく、疑いを示したものです。写し違いなのか、元の記録の字なのかは、決まっていません。1000年前の出来事は、そういう層の重なりの中にあります。

なぜ密告が起きたのか、誰が得をしたのかは、綱文にも歴史書の本文にも書かれていません。この記事も書きません。


ひとりの男が書いた経と、埋めた筒と、隣に座った人の日記#

この回の、いちばんの山場です。

1007年の8月11日、藤原道長という人が、大和の金峯山——いまの山上ヶ岳——に、筒を埋めました。その筒は江戸時代に掘り出されて、いま京都国立博物館に預けられています。こうして経を土に埋めた場所を、経塚と呼びます。

「そしてこの経筒は日本で最(もっと)も古(ふる)いものなのです。」 「そして最後(さいご)に埋めた日付(ひづけ)が「寛弘(かんこう)四年八月十一日」と記されています。この年は西暦1007年のことになりますので、道長41歳(さい)の時、今からほぼ1000年前の出来事(できごと)になります。」

京都国立博物館の、子ども向けの解説です定説。「日本で最も古い」は、この館の記述で、他の機関では確かめていません。筒の中には、道長が自分で書いた経が入っていました。東京国立博物館は「巻末の奥書では、「長徳四年」「峯山金」「件第一」の文字が確認できるため、金峯山に埋納する目的で長徳4年(998)に書写したことがうかがえる」と書きます定説。998年に書いて、9年後に埋めています。

そして、この男は日記を書いていました。本人の字で残っています。

「道長の自筆日記『御堂関白記』(京都・陽明文庫所蔵)によると、道長は、寛弘4年8月2日に京を発ち、11日に金峯山で供養法要を行い、14日に帰洛するまで、金峯山詣をしたことが知られる。」

定説※9。筒に刻まれた字は、1007年8月11日に埋めた。経の奥書は、998年に書いた。本人の日記は、8月2日に都を出て、11日に法要をし、14日に帰った。書物と、地面から出た物と、その中の自筆が、1つの日付で合っています定説。

1018年10月16日——「望月の歌」は、誰が書き留めたか#

それから11年後の夜が、冒頭の場面です。もう一度、その日の記事の始まりを置きます。

十六日、乙巳、今日以女御藤原威子立皇后之日也、前太政大臣第三娘、一家立三后、未曾有、

16日。今日は女御藤原威子を皇后に立てる日である。前の太政大臣の三女で、一家から三人の后を立てるのは、未曾有である——定説(刊本の判読として・校閲未了)※1。

その夜の席で、冒頭の歌が詠まれます。道長本人の自筆の日記ではなく、同席した実資の日記に残っています。 詠む前に道長自身が、誇った歌だ、ただし前もって作ったものではない、と断り、実資は返歌の代わりに、一同でこの歌を唱えよう、と応じています。道長がその日、自分の日記に何を書いたかは、この記事は当たっていません※2。

道長という人について、この記事が持っているのは、自筆の経と、日付の刻まれた筒と、自筆の日記と、隣の人が書き留めた歌の夜です。それで十分に、1人の人が書けます。

持っていないものも書いておきます。この時代の文学として名の挙がる『源氏物語』『枕草子』、そして『古今和歌集』——それらを、私たちはいつの写しで読んでいるのか。現存最古の写本について、この記事は機関の記述を持っていません※10。仮名の文学がこの回に出てこないのは、そのためです〔訂正 2026-09-16〕。


1053年の建物が、そのまま立っています#

道長の子が、宇治に阿弥陀堂を建てます。

「藤原頼通は永承七年(一〇五二)宇治の別荘を施入して寺とし、翌天喜元年(一〇五三)に新たに阿弥陀堂を営み供養した。これが鳳凰堂である。」

文化庁の解説です定説。中の仏像について、平等院は「鳳凰堂の本尊阿弥陀如来坐像は、日本の仏像作家を代表する仏師定朝の作で、現存する唯一確実な像。平安時代後期、天喜元年(1053)に納められました」と書きます定説。

3つ、分けてください。「1053年の建物がそのまま立っている」と「1053年のままである」は違います——平等院の年表には、1670年に正面の扉が、1967〜72年に屋根の鳳凰・梵鐘・扉の絵が取り替えられたとあります。「鳳凰堂」という名前は1053年にはありません——平等院は「1670(寛文10年)……この頃より阿弥陀堂は鳳凰堂と呼ばれるようになる」と書き、建てた人は「阿弥陀堂」と呼んでいました定説。そして「末法初年に当たるとされ」——「とされ」です。その思想が建てた動機であったかどうかは、この記事は判定しません。


東北——「柵」の場所は、1つを除いて確定していません#

11世紀の後半、いまの秋田県で、「後三年合戦」と呼ばれる戦いがありました。その舞台とされる柵について、横手市は自分でこう書いています。

「「後三年合戦絵詞」で確認される柵は、金沢柵と沼柵ですが、未だにどこにあるか確定されていません。」

定説。掘っている報告書も「未だ確認されていない「金沢柵」の本体である「館」部分が、上述の段状地形のいずれかに存在することが想定される場所である」と書きます。柱の穴の列は出ています。それが「後三年」のときの柵かどうかは、報告書自身が決めていません。

一方で、確定した柵が1つあります〔訂正 2026-09-16〕。

「「陸奥話記」で確認される大鳥井柵は、発掘調査によって空堀や土塁などの遺構や椀と小皿のセットとなった「かわらけ」(酒を酌み交わす際に使用されるもの)が出土したことにより、大鳥井山遺跡として史跡に指定されています。」

同じ横手市のページです定説。確定した柵が1つ、確定していない柵が2つ。史跡になるには「まずその時代の遺構と遺物を発見しなければなりません」と、市は書いています。

横手市は「実際には「後三年合戦」は源義家の陸奥守赴任から、清原武衡・家衡滅亡まで5年かかっており」と書き、「源頼義が鎮守府将軍に任命されてから安倍氏滅亡までが9年間ですから、12から9を引いて3になり、「前九年」と「後三年」という呼び名が表れました」とも書きます定説。「3」は、12から9を引いた数です。

そして、同じ市は「このとき朝廷は、清原氏が反乱を企てたという認識はなく、源義家は翌年に陸奥守を解任されています。このことからも、「役」ではなく「合戦」というようになっています」と書きます。愛媛県の博物館は「後三年の役」と呼び、「応徳3(1086)年に東北地方で起きた」と1年で書きます。

年は、こうです。文化庁は「永保3〜寛治元年、1083〜1087」と書き、東京大学史料編纂所の綱文も、1083年の「是より奥羽の地、連年兵結びて解けず」から、1087年12月26日の「是日、義家、平定の状を奏す」までを、同じ枠で置いています定説(綱文として)。綱文で見ると、1086年は義家の申文が朝廷で議された年にあたる、と下調べの側は読んでいます。博物館が何を指して「1086年」と書いたのかは、博物館は書いていません〔訂正 2026-09-16〕。この記事は「合戦」を使い、年は1083年から1087年と書きます。


その時代、人はどんな環境で、どんな場所で暮らしていたか#

915年——灰が、4つのもので突き合わされています#

この回で、いちばん確かなことです。915年、いまの秋田県で、灰が降りました。東北大学の博物館は、その年代がどう決まったかを、こう書いています。

「例えば十和田火山平安噴火の場合、『扶桑略記』裡書・延喜十五年(915年)七月十三日条には『出羽国言上雨灰高二寸、諸郷農桑枯損之由』と出羽(現在の秋田県)で灰が降って農作物に被害がでたとあるのみで、十和田火山の噴火とは書かれていません。」

書物は、灰が2寸積もり、農作物が枯れた——までで、どの山かは書いていません定説。どの山かを決めたのは、地面です。

「東北地方の考古遺跡の発掘調査において、十和田火山の火山灰が歴史記録から870年と934年に対応する遺物を含んでいる層の間にあること、十和田噴火の噴出物によって埋まった建物の柱の材木が年輪年代学の分析によって902年以降に切られたものであることがわかっており、この記述が十和田火山の火山灰に関連した記述であることを裏付けています。さらに、噴出物中に埋まった樹木の表皮の組織分析から、樹木が埋まった季節は木が成長する夏であることがわかり、記述にある日付と矛盾がないことも、年代推定の確かさを示しています。」

書物の日付、灰の層の位置、埋まった柱の年輪、埋まった木の表皮——4つの独立した手がかりが、同じ年を指しています定説。産業技術総合研究所は、この噴火の噴出量を「見かけ体積 5.3 km3」とし、同時に「Hayakawa (1985) で約6.5 km3,広井ほか (2015) で約5.3 km3と推定される」と2つの値を並べています。

「さらに十和田カルデラ周辺では,火砕流の噴出後にラハールが発生した.カルデラ南西の大湯川〜米代川流域では,ラハール堆積物に埋没した建物が複数発見されている」

噴火のあとの泥の流れに、建物が埋まりました。柱の木は902年より後に切られています定説。灰が降ったのが915年なので、その間に建てた家です〔訂正 2026-09-16〕。その家に誰が住み、何を食べていたかは、この記事にはありません※11。

環境と暮らしを、対にして置きます。

環境について言えることそれで、人はどうしていたか
915年、灰が降った(噴出量は5.3〜6.5km³の2値)出羽で「農作物に被害がでた」と書物が書く。泥流に建物が埋まった。柱は902年以降に伐られた。住んでいた人は分からない

道長の側は、自分の字と筒と日記で日付まで合い、隣の人が歌の夜まで書いています。灰に埋まった家の側は、柱の年輪の年まで分かって、住んでいた人は分かりません。同じ世紀の人の「残り方」が、これだけ違います。

10世紀の気候は、割れています#

年輪の研究は「日本の夏の気候には,弥生時代の中期(紀元前3 ―2世紀)と平安時代の前期(紀元10世紀)に乾燥・温暖の極を迎え」と書き、海の底の研究は「950~1250年頃は、ユーラシア大陸を中心として「中世温暖期」として有名です。しかし、本研究で得られた結果は予想外に「寒冷」でした。「日本には中世温暖期はなかった」ということになります」と書きます。同じ世紀を、片方は「温暖の極」と呼び、片方は「寒冷」と呼び、正面から食い違っています論争中〔訂正 2026-09-16〕。年輪の「温暖」は降水量から間接に、海の底の「寒冷」は水温から推定したものです。前の回は「測っているものが違うので矛盾ではない」と書けましたが、この回は同じ語で逆のことを言っているので、そうは書けません。この記事はどちらも採りません。年輪の研究が干ばつを荘園につなげる筋は「可能性がある」「かもしれない」の語尾なので、因果として書きません。海の底の研究は、この記事は紹介ページまでです※12。

都の側#

京都市は「左京にかたよっていた都市域は,10世紀には北と南で独自の展開をみせはじめる。一条・二条を中心とする北部には貴族の大邸宅や官庁施設が多く,四条から七条あたりには庶民の住宅や店舗・工房がひろがり,北部では「上京」が,南部では「下京」が形成されていく」と書きます。京都市の概説です〔訂正 2026-09-16〕。前の回で右京が畑になっていくのを見ました。この回は、残った左京の中で、北に貴族、南に庶民と工房、という形ができていきます。ただし、その四条から七条に何人が住み、どんな家で、何を食べていたか——この回も1件も取れていません※13。十和田の灰は年まで決まりましたが、都を襲った地震・疫病・飢饉の年と規模は、この記事にはありません※14。

白頭山——海の向こうの噴火#

東北大学は、10世紀に日本海の向こうでも大噴火があったが「古文書記録は見つかっていません」と書いています。そして「そのため、ある場所での降灰を記した古文書の記述が見つかれば、噴火がいつ起こったかを決めることができます」とも書きます。灰の記録が1つ見つかれば、年が決まります※15。

海の向こうと言えば、この回には宋も高麗も出てきません。列島の外で書かれた10〜11世紀の史料を、この記事は持っておらず、1019年の刀伊の入寇も書けていません※16。

10世紀は寒かった、という読みについて#

この回には、もう1つの物差しの読みが1つあります。3つに分けて書きます。

その読みは何を言っているか。 西日本の海の底の堆積物から復元した気温は、950〜1250年ごろを「寒冷」とし、「日本には中世温暖期はなかった」と言います。ユーラシア大陸で「中世温暖期」と呼ばれる時代が、日本では寒かった、という読みです。

なぜ、この記事はそれを定説として書かないか。 年輪の研究が、同じ10世紀を「乾燥・温暖の極」と、逆の語で呼んでいるからです。片方は降水量から間接に、片方は水温から気温を推定していて、どちらが正しいかを判定した機関の記述に、この記事は届いていません。そして海の底の研究は、紹介ページまでで、原論文の数値には当たっていません※12。

何が出てくれば、動くか。 同じ地域で、雨と温度の両方が同じ目盛りで復元されたときです。あるいは、年輪の「温暖」が気温の推定としてどこまで言えるかを、年輪の側が書いたときです。


呼び名は、あとから生まれます#

この回は、「出来事」と「出来事の呼び名」が別の時代に生まれた例が、3つ揃いました。「後三年」は鎌倉時代末期に、12から9を引いて付いた名です。「鳳凰堂」は1670年ごろからの名で、建てた人は「阿弥陀堂」と呼びました。「役」か「合戦」か——横手市は「役ではなく合戦」と書き、愛媛県の博物館は「役」と書きます〔訂正 2026-09-16〕。呼び名の違いに、出来事の見方の違いが出ています。そして「望月の歌」——その歌を、詠んだ本人は「誇った歌」と呼び、隣の人は「優美」と書きました。


ここから先は、まだわかっていないこと#

この回で、学問の側が割れているものは2つです。

10世紀の日本は、暖かかったのか、寒かったのか論争中#

年輪は「乾燥・温暖の極」、海の底は「寒冷」。同じ世紀が、2つの研究で逆に呼ばれています。

動くとしたら——同じ地域で雨と温度が同じ目盛りで復元されたときです。

金沢柵と沼柵は、どこにあったのか論争中#

横手市自身が「確定されていません」と書いています。柱の穴の列は出ていますが、報告書は「想定される」「構成すると考えられる」の語尾で書いています。

動くとしたら——その時代の遺構と遺物が、同じ場所から出たときです。掘っている最中で、新しい発見を待つ種類の空白です。


定説論争中の見立ては、この記事の書き手が決めたものではありません。 書き手とは別に用意された下調べの資料に付いていたものを、上げも下げもせずに使っています。(綱文として)(刊本の判読として・校閲未了)(史料編纂所の翻刻として・断片)の限定も、下調べの資料のとおりです。機関の記述の断定文には、この媒体の決まりどおり定説(機関の記述として)を置いています。下調べの資料が見立てを置いていないもの——「推定されています」「か」「可能性が高いことも指摘されている」——は、機関の語尾のまま書き、見立てを新しく付けていません。下調べで確かめられなかったことは、この記事にも書かれていません。

執筆:タドル(通史ライター)/検証:アラタメ(2026-09-16・公開後)/掲載判定:ミサダメ(2026-09-16・公開後)

この記事の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1この記事では手が回っていない『小右記』の文は、史料編纂所のデータベースの機械テキストから、検索で出た断片をつないだもの。 校閲未了——人の目による校閲を経ていない。断片の間に欠けがありうる人の目で刊本の頁を読めば、逐語の確かさが上がり、1本の文として引けるようになる
※2この記事では手が回っていない『御堂関白記』の1018年10月16日の記事——道長自身はその夜、何を書いたか。史料編纂所のデータベースで当たれる型で、まだ当たっていない「望月の歌」を、詠んだ本人の側からも書けるようになる
※3この記事では手が回っていない『日本三代実録』のあと国史が「完成を見ずに終わった」経緯(『新国史』)何が着手され、なぜ止まったかを書けるようになる
※4この記事では手が回っていない『日本紀略』の10世紀の部分が何に依拠しているか。 解題は六国史の部分を「抄録」と書くが、その後の部分の材料は書いていない将門の奏文が、どういう形でこの本に入ったかを書けるようになる
※5この記事では手が回っていない『延喜式』の完成年(927年)・施行年(967年)。文化遺産オンラインのページに記載なし「905年に編集開始」の先を書けるようになる
※6この記事では手が回っていない『日本紀略』『貞信公記』『扶桑略記』『本朝神社考』の文は、史料編纂所の刊本の頁を機械で読んだもの。 校閲未了——人の目による校閲を経ていない。将門・安和の頁は別の読み手2つ(機械)と突き合わせて字は一致したが、それは校閲ではない人の目で同じ頁を読めば、逐語の確かさが上がる
※7情報が食い違っている将門の死の日付。 『日本紀略』の奏文と『浄蔵法師伝』は「今月十三日」、『扶桑略記』は「十四日未刻」。編纂所は14日の条に立てているが、何に従ったかは確かめていない。「13日に戦い、14日に死んだ」は下調べの側の読みで、逐語に無い。『将門記』の続きは未読『将門記』の続きと刊本の校訂注を読めば、13日と14日の関係がもう1本で確かになる
※8この記事では手が回っていない『将門記』の成立年・作者・本文の性格。目録の1行まで最古の写しの1099年と、書かれた時との距離を書けるようになる
※9二次情報から引いている『御堂関白記』の中身は東京国立博物館の解説が「〜によると」として引いた形。本文に当たっていない日記の記述を直接引けるようになる
※10この記事では手が回っていない『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』の現存最古写本。 文化遺産オンラインの検索で該当0件この時代の文学を、いつの写しで読んでいるかを添えて書けるようになる
※11この記事では手が回っていない十和田の泥流に埋まった建物の住人・暮らし「灰に埋まった家」に人を書けるようになる
※12二次情報から引いている海底堆積物の気温の研究(川幡2017)は大学の紹介ページまで。原論文の数値に当たっていない「寒冷」を、原論文の値で書けるようになる
※13この記事では手が回っていない10〜11世紀の人口・家の形・食べたもの「どう暮らしたか」に近づける
※14この記事では手が回っていない十和田以外の災害(地震・疫病・飢饉)都の側の暮らしを年で書けるようになる
※15この記事では手が回っていない白頭山の10世紀噴火の年列島の外の環境を1件書けるようになる
※16この記事では手が回っていない列島の外で書かれた10〜11世紀の史料(宋・高麗)。刀伊の入寇(1019年)刀伊の入寇や宋との交易を書けるようになる

この回で扱わなかったこと#

通史は網羅に見えます。見えるからこそ、外した範囲を書きます。

  1. なぜ安和の変が起きたか、誰が仕組んだか——綱文にも歴史書の本文にも書かれていません。この記事も書きません
  2. 道長が摂政・関白になった経緯、「摂関政治」という言葉——機関の説明に当たっていません。この記事は「摂関政治」の語を使いません
  3. 将門の乱の筋(何を求めて、どこを攻めたか)——早馬の奏文と、77条の本文の一覧までです
  4. 純友の乱——当たっていません
  5. 『源氏物語』『枕草子』『古今和歌集』と、仮名の文学——写本に届いていません※10
  6. 仏教の教えの中身、末法思想——「とされ」までです
  7. 宋・高麗との往来、刀伊の入寇——外の史料を持っていません※16
  8. 前九年合戦と平泉——次の回へ
  9. 『延喜式』の条文の中身——「行事が半分近く」までです
  10. 醍醐寺五重塔など、この回に建った他の建物/多賀城・胆沢城のその後/銭・市・物の値段——当たっていません
  11. 人口・家・食べもの・十和田以外の災害※13※14

次の回へ#

朝廷の歴史書は、続きませんでした。代わりに残ったのは、あとの時代に編まれた歴史書に収められた信濃からの早馬の奏文と、密告の翌日の人事の記事、そして、隣の人の歌を書き留めた日記でした。

この回で見てきたのは、朝廷の歴史書が無くなったとき、何が出来事を書き留めるか——でした。答えは、あとから編まれた歴史書と、日記の2つでした。次の回は、その日記が、都の中の戦いを1日ずつ書く時代です。


訂正履歴#

この記事の初版(2026-09-07)には、下調べの資料で支えられない記述、または資料と食い違う記述がありました。全件を、訂正前の文のまま載せます。

日付訂正前(逐語)訂正後理由
2026-09-16執筆:タドル(通史ライター)/検証:アラタメ/掲載判定:ミサダメ検証・掲載判定に日付と「公開後」を添えた初版(2026-09-07・09-08)は、編集部の確認(検証・掲載判定)を経ずに公開された。検証・掲載判定は 2026-09-16 に行った
2026-09-16この回は、その歴史書が途絶え、代わりに日記が、出来事を書き留めた時代です。出来事を日付で残したものは2種類——後の時代に編まれた歴史書(『日本紀略』)と、貴族の日記(『貞信公記』『小右記』)——の形に『日本紀略』は日記ではない。機関の解説は「歴史書」「編年体」「編者は不詳」と書く(龍谷大学図書館)。「日記」と呼べる根拠を、初版は持っていなかった
2026-09-16けれども、朝廷の歴史書が途絶えたあとにも、出来事を日付で書き留めたものはありました。貴族の日記です。 冒頭の『日本紀略』『貞信公記』がそれで、この回の終わりに、もう1本、日記が出てきます。2種類(歴史書と日記)に分け、『日本紀略』の性格を機関の解説で立てた。『小右記』は「終わり」ではなく冒頭と中ほどに出る同上。「この回の終わりに」も構成と合っていなかった
2026-09-16綱文は「橘敏延」、日記は「橘繁延」。編纂所の要約と元の記録とで、人の名の字が違います。「歴史書の本文は「橘繁延」」に同上
2026-09-16なぜ密告が起きたのか、誰が得をしたのかは、綱文にも日記にも書かれていません。「綱文にも歴史書の本文にも」に同上
2026-09-161. なぜ安和の変が起きたか、誰が仕組んだか——綱文にも日記にも書かれていません。同上同上
2026-09-16歴史書は途絶えました。代わりに残ったのは、信濃からの早馬を書き留めた日記、密告の翌日の人事を書き留めた日記、そして、隣の人の歌を書き留めた日記でした。/答えは、日記でした。「あとの時代に編まれた歴史書に収められた信濃からの早馬の奏文と、密告の翌日の人事の記事、そして、隣の人の歌を書き留めた日記」「答えは、あとから編まれた歴史書と、日記の2つ」に同上。記事の枠そのものが『日本紀略』=日記の上に立っていた
2026-09-16同時代の記録にも写し違いがあり、要約は要約で名前を整えている「刊本の編者は……疑問の「カ」を付けた注を置いています。校訂して正したのではなく、疑いを示したものです。写し違いなのか、元の記録の字なのかは、決まっていません」に『日本紀略』は同時代の記録ではない。傍注の「カ」は疑いの印で、「写し違い」と決まったものではない
2026-09-16編纂所の刊本は、脇に小さく「敏延カ」と注を付けています。「橘敏延・源連カ」「敏カ、下同ジ」と刊本の傍注のまま引用符の中が刊本の傍注の逐語と一致していなかった
2026-09-1613日に戦いが始まり、14日に将門が死んだ——編纂所は『扶桑略記』に従って、14日の条に立てました。早馬の「十三日」は、戦いの日です。「『日本紀略』の奏文は13日に討たれたと書き、『扶桑略記』は13日に攻め、14日の未の刻に死んだと書く——1日のずれは、史料の側にあります。編纂所は14日の条に立てていますが、何に従ったのかは、この記事は確かめていません」に奏文は「合戦之間…被討殺」——13日に討たれた、と書いており、「戦いの日」は『扶桑略記』の日割りを被せた読み。編纂所が『扶桑略記』に従ったと述べた記述は無い
2026-09-16### 将門が死んだのは、13日か14日か論争中……史料の側で、1日割れています。編纂所は14日を採りました。「まだわかっていないこと」から外し、未確認事項の表(※7・情報が食い違っている)に置いた史料どうしの異同であり、学問の側が割れていると確かめたものではない。論争中は下調べの資料に無く、記事が付けた見立てだった。本文で解いたことにしながら末尾で割れているとする矛盾もあった
2026-09-16この頁は、別の読み手2つで読み直して一致しました。本文から削り、未確認事項の表(※6)に残した記事を作る側の工程で、読者への情報ではない
2026-09-16東京大学史料編纂所は、日本の歴史を年月日の順に並べる仕事を1901年から続けている機関です。「日本の歴史を年月日の順に並べる『大日本史料』を編んでいる機関です」に「1901年」は下調べの資料に紐づかない年号だった(誤りと確かめたのではない。典拠が立てば戻す)
2026-09-16藤原忠平の日記『貞信公記』の抄には「御誦経、十寺可行」——10か寺で経を読ませよ、とだけあります定説※1。「とあります(編纂所が抜いた句で、13日の記事の全文ではありません)」に読んだのは『大日本史料』が抜いた1句で、13日の記事の全文ではない。「とだけ」は全文を読んだ言い方
2026-09-16## 将門の死は、その後1000年で77本の本になった/そして、編纂所はこの1条の下に、この出来事を書いた本を並べています。77本です定説。「77条です——同じ本の複数の箇所を含むので、77本の本ではありません」に。見出しも改めた77は本文の一覧の条の数で、『吾妻鏡』だけで3か所を数える。書物の数ではない。並ぶ本は江戸時代までで「1000年」も丸めすぎ
2026-09-1610世紀の『日本紀略』『貞信公記』『扶桑略記』『将門記』から始まり「10世紀の」を外した4本を10世紀の成立とする根拠は下調べの資料に無い。『日本紀略』は解説が「平安時代後期/末期」と書く
2026-09-16鎌倉幕府の『吾妻鏡』は将軍が「将門合戦絵」を画工に描かせたと書き「「将軍(実朝)家日来仰画工、」——将軍が画工に命じた、と書き出し(続きは読んでいません)」に「将門合戦絵」は逐語に無い語で、引用符で括れない。読めた逐語は「仰画工」まで
2026-09-16前の回まで「〜と『日本三代実録』に書かれています」と書いてきたこの連載は「前の回まで、歴史書から編まれた綱文を主語にしてきたこの連載は」に前の回はその形の文を書いていない。前の回は歴史書の本文に当たらず、綱文を主語にしていた
2026-09-161086年は、綱文で見ると、義家の申文が朝廷で議された年です。「綱文で見ると、1086年は義家の申文が朝廷で議された年にあたる、と下調べの側は読んでいます。博物館が何を指して「1086年」と書いたのかは、博物館は書いていません」に下調べの資料が「読み」として留保していたものを、記事が断定にしていた
2026-09-16『栄花物語』は「成立は、……推定されています」有力説。見立て無し。語尾のまま有力説は下調べの資料に無く、書き手が新しく付けた見立てだった
2026-09-16「『将門記』にみえる結城郡法城寺にあたる可能性が高いことも指摘されている」と文化庁の解説にあります一説。見立て無し。語尾のまま同上(一説)
2026-09-16902年から915年までのあいだに伐った木で建てた家です定説。「柱の木は902年より後に切られています定説。灰が降ったのが915年なので、その間に建てた家です」に年輪が言うのは「902年以降」まで。「915年まで」は噴火の年からの推し。測った値と推しを分けた
2026-09-16どちらの研究も相手を否定しておらず、この記事はどちらも採りません。「正面から食い違っています」「前の回は……そうは書けません」に「相手を否定していない」は前の回(9世紀)の話で、10世紀は同じ語で逆のことを言っており、下調べの資料は「そう書けない」と定めている
2026-09-16「役」か「合戦」かには、出来事の性格づけが含まれています定説。見立て無し。「横手市は「役ではなく合戦」と書き、愛媛県の博物館は「役」と書きます。呼び名の違いに、出来事の見方の違いが出ています」に定説を付ける対象が機関の記述ではなく、こちらの読みだった
2026-09-16凶賊平将門は今月13日、……討ち殺された、と(「陸奥」は、…)訳文に「(「凶賊」は都の側の記録の言葉です)」を添えた史料の語としては必要だが、訳文で無注のまま繰り返していた
2026-09-16仮名の文学が出てこないのは、忘れたからではなく、届かなかったからです。「仮名の文学がこの回に出てこないのは、そのためです」に記事を作る側の事情の言い方だった
2026-09-161007年の8月11日、藤原道長という人が、奈良の山の上に、筒を埋めました。その筒は江戸時代に掘り出されて、いま京都の博物館にあります。「大和の金峯山——いまの山上ヶ岳——に」「いま京都国立博物館に預けられています」に機関の記述は「大和金峯山(現在の山上ヶ岳)」「京都国立博物館でお預かり」。「奈良の山の上」は記事の言い換えだった
2026-09-16### 金沢柵と沼柵は、どこにあったのか推測論争中に下調べの資料は、この項を「対象そのものが決まっていない」ものの表に置いている。推測は何を推測しているのかが無い
2026-09-16※12|二次情報から引いている|将門の死の日付。 『日本紀略』「今月十三日」/『扶桑略記』「十四日未刻」。刊本の頁は3つの読みで一致。『将門記』の続きは未読「情報が食い違っている」に(※7)2つの史料の日付が違う、という内容で、種類の当て方が違っていた
2026-09-16※1|二次情報から引いている|『日本紀略』『貞信公記』『小右記』の文は、史料編纂所の刊本の頁とデータベースの翻刻から読んだもの。 将門・安和の頁は別の読み手2つ(機械)で読み直し、一致した。『小右記』はデータベースの翻刻「この記事では手が回っていない」に。内容欄に「校閲未了——人の目による校閲を経ていない」を明記(※1・※6)刊本を直接読んでいるので「二次情報」ではない。していないのは人の目による校閲である
2026-09-16京都市は「左京にかたよっていた都市域は,10世紀には北と南で独自の展開をみせはじめる。一条・二条を中心とする北部には貴族の大邸宅や官庁施設が多く,四条から七条あたりには庶民の住宅や店舗・工房がひろがり,北部では「上京」が,南部では「下京」が形成されていく」と書きます定説。見立て無し。「京都市の概説です」の形に京都市の概説の1文に定説を付ける根拠が、下調べの資料に無い
2026-09-16茨城県の寺の跡は「10世紀中頃から後半に焼失したと考えられる」とされ「結城廃寺という寺の跡は」に所在の県名は下調べの資料に無い
2026-09-164. 純友の乱——綱文に「純友」の名は出ますが、筋には当たっていません「純友の乱——当たっていません」に「純友」の名が綱文に出ることは、下調べの資料に無い

改稿履歴#

  • 2026-09-16 枠の組み替え。「歴史書が途絶え、日記が書き留めた」の枠を、「朝廷の歴史書は続かなかった。出来事を日付で残したものは、後の時代に編まれた歴史書と、貴族の日記の2種類」に組み替えた。節の並びは初版のまま。冒頭の場面を信濃の早馬(940年)から一家立三后の夜の歌(1018年)に替え、早馬は940年の節に戻した。「その前に、何があったか」の節を新設した。東北の節に大鳥井柵(史跡になった1つ)を足した。環境の節に「環境について言えること/それで、人はどうしていたか」の対を置き、10世紀の気候の別の読みを3点で書いた。未確認事項の番号を本文の初出順に振り直した。文体・構成の変更であり、事実の訂正は上の表のとおり。
  • 2026-09-16 通読の所見(1往復)を受けて手直し。冒頭は読み下しを先に、翻刻を後に。東北の節の長い段落を3つに切った。環境の対の表から、環境ではない「都の偏り」の行を外した(都の側の節に残る)。
  • 2026-09-16 検証(順5)の指摘を受けて手直し。京都市の概説の定説・「茨城県」・「純友」の名を訂正履歴に3行足した(告知の件数も合わせた)。冒頭「宴の席」を「その夜の席」に。「鎌倉で絵になり」を「将軍が画工に命じ」に。節の頭を「もう1つの物差しの読み」に。定型文に1文足した。