資料室 / 歴史書(後世の編纂物)

『日本紀略』(編者不詳の編年体の歴史書・一名『編年略記』)

神代〜長元9年(1036年)の記事(龍谷大学図書館の解題による)。成立は「平安時代後期」「平安時代末期」(同) / 2026-09-29

★ここに史料そのものは置いていません。これは「この史料をどこまで信じてよいか」の台帳です。原文の翻刻も単独の現代語訳も載せず、どこで読めるかを案内します。この媒体が実際に読んだ範囲に限り、判読と下訳を「読んだ本文(対照)」の節に置くことがあります(AI の判読・専門家の校閲未了)。この台帳自体を、記事や論文の典拠にはしません。

どんな史料か#

編者の分からない、漢文・編年体の歴史書です。日記ではありません。 万延元年(1860年)の刊本を画像で公開している龍谷大学図書館は、2つの展観の解題で、こう書いています(逐語・https://da.library.ryukoku.ac.jp/page/210713 ・取得 2026-09-16/2026-09-29 に取り直して一致)。

「『日本紀略』は、平安時代後期に成立したとされる歴史書である。編者は不詳であり、神代から後一条天皇の長元9年(1036)までの歴史が、編年体の体裁を採り、漢文で記されている。」(2022年度展観「戦と平和」)

「『日本紀略』は、平安時代末期に編纂された歴史書である。編者は未詳。『日本書紀』をはじめとする「六国史」の抄録と、六国史以降の後一条天皇の時代(長元9年(1036))までを収める。」(2021年度展観「病と生きる」)

項目記載
何か「歴史書」(龍谷大学)/目録の分類は「通史」(国文学研究資料館 国書データベース)・「雑史・実録」(宮内庁書陵部)【定説:機関の記述・目録の記載として】
編者「不詳」「未詳」(龍谷大学)。著者の欄は、国書データベースでは空欄、書陵部の目録では「-」【定説:機関の記述・目録の記載として】
体裁「編年体の体裁を採り、漢文で記されている」(龍谷大学)【定説:機関の記述として】
記事の範囲神代〜後一条天皇の長元9年(1036年)(龍谷大学・国書データベース)【定説:機関の記述として】
成立★「平安時代後期に成立したとされる」(2022年度)/「平安時代末期に編纂された」(2021年度)——同じ機関の2本の解題で語が違います。本台帳は2つを並べ、1つに丸めません【定説:機関の記述として・語は割れている】。国書データベース・書陵部の目録に成立年の記載はありません
材料六国史の部分は「抄録」、六国史以降は「収める」(龍谷大学)【定説:機関の記述として】。★六国史以降の部分——10世紀の将門・安和の条を含む部分——が何に依拠したかは、当たった機関の記述にありません※1
別名「編年略記」。醍醐天皇〜後一条天皇の部分に「九代略記」の呼び名(国書データベース 著作注記「九代略記は醍醐天皇‐後一条天皇」)【定説:機関の目録の記載として】

★この史料について、最初に押さえていただきたいことが2つあります。

1. 10世紀の記事を収めていますが、10世紀の本ではありません#

通史⑧が引いた940年(将門の死の奏文)と969年(安和の変)の条は、この本に収められた10世紀の記事です。記事の年と、本が編まれた時は別です。 機関の語で本が編まれたのは「平安時代後期」または「末期」で、年はどの機関にもありません。奏文が940年のものであることと、それが元の形のままこの本に入っているかどうかは、別の問いです(「典拠にするときの注意」1)。

2. 「歴史書」「通史」「雑史・実録」——機関ごとに棚が違います#

龍谷大学は「歴史書」、国書データベースの分類は「通史」、書陵部の分類は「歴史及伝記 > 歴史 > 日本史 > 雑史・実録」です【定説:機関の記述・目録の記載として】。これは機関の分類の書き方の違いで、学説が割れているのではありません。 「日記」の語は、当たった4機関のどこにもありません。

原本はあるか#

★編者の手になる本(原本)の有無を書いた機関の記述に、本台帳は到達していません。到達したのは、写本と刊本の目録の記載までで、その写本に書写の年代が書かれているものは、見えた範囲では江戸中期より古くありません※2。

国立公文書館(内閣文庫)の目録(国立公文書館デジタルアーカイブ・検索「日本紀略」・https://www.digital.archives.go.jp/search?kw=%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5 ・取得 2026-09-29)【定説:機関の目録の記載として】:

請求番号内容の年(目録の「年月日」欄)数量書誌事項旧蔵者・関連事項
137-0181延暦01年 - 長元09年10冊写本太政官正院地志課・地理寮地誌課・内務省地理局
137-0182天長10年 - 長元09年5冊写本内務省/「有欠 八条隆英旧蔵」
137-0187仁和03年 - 長元09年19冊写本昌平坂学問所
137-0188(「文武天皇元至長元9年(有欠)」)12冊写本林家(大学頭)
137-0183/0184/0185/138-0005—各14冊刊本::万延:010000:137-0183 は「校正書入本」・「校訂者:山崎知雄」(詳細画面)、138-0005 は司法省旧蔵

★4件の写本のどれにも、書写の年代は書かれていません。 目録は「写本」とだけ書きます。「江戸期の写本」とすら、この目録からは言えません。 詳細画面(https://www.digital.archives.go.jp/file/1232498 ほか)に解説文の欄はありません。

宮内庁書陵部の目録(書陵部所蔵資料目録・画像公開システム・フリーワード「日本紀略」90件のうち1〜50件・データ更新 2026年09月28日・取得 2026-09-29)【定説:機関の目録の記載として】。見えた範囲の写本は、松岡本「写, 江戸末期」(醍醐天皇―後一条天皇・13巻)、藤波本「写, 江戸中期」(醍醐天皇―後一条天皇。家別の無い14巻本も「写, 江戸中期」)、谷森本「写, 文久2年5月」(神代―持統天皇・5巻)、諸陵寮本「写, 明治」、宇多天皇の巻・清和天皇の巻の「写, 明治」、そして年代の記載が無い31巻本(函架番号 553・6「日本紀略(神代―後一条天皇・31巻) 写」)です。平安・鎌倉・室町の写と記された本は、見えた50件にはありません(51〜90件目には届いていません※2)。谷森本の第1冊の内容は目録で「日本書紀巻第1(神祇上)、巻第2(神祇下)」——神代の部分が『日本書紀』の抄録であるという龍谷大学の「抄録」と向きは合いますが、目録は「抄録」とは書いていません。

★書かれた時と、いま読めるものの間#

書かれた時いま読めるもの隔たり
『日本紀略』(本台帳)「平安時代後期」または「末期」(年は無い)内閣文庫の写本4件(年代の記載なし)、書陵部の写本(江戸中期〜明治・見えた範囲)、刊本は万延元年(1860年)※2★年数で書けません。 目録に書写の年が無く、成立の年も無いためです
『小右記』(S-J023)982〜1032年の日記九条本「写, 平安後期」(書陵部の目録)目録の語で「平安後期」。年は無い
『御堂関白記』(S-J024)998〜1021年の日記本人の自筆本14巻(文化庁・所蔵者)同じ人の手

同じ通史⑧に出る3本でも、いま読めるものまでの距離がまったく違います。 この本は、その中でいちばん遠く、しかも距離を数字で言えません。

刊本#

  • 万延元年(1860年)刊『校訂日本紀略』・山崎知雄校——龍谷大学(「著者名 山崎彌左衛門校正」「著者別名 山崎知雄」「出版者 (江戸)山城屋佐兵衛[等]」「刊年 万延1(1860)」・5冊)、内閣文庫(「校訂者:山崎知雄」・14冊)、書陵部(「山崎知雄校 版, 万延元年」・版元は山城屋佐兵衛・玉山堂・出雲寺文次郎の3種)の3機関の目録で一致します【定説:機関の目録の記載として】。★この刊本が何を底本にしたかは、凡例を読んでいません※3
  • 明治の『国史大系』(経済雑誌社・第1-17巻・1897-1901)第5巻、『新訂増補国史大系』第10巻「日本紀略」・第11巻「日本紀略 百錬抄」(吉川弘文館・1965年)、普及版「前篇 上」「前篇 下」(1985年)——国立国会図書館サーチの書誌の行として【定説:同館の書誌の記載として】。第10巻=前篇・第11巻=後篇かどうかは、一覧の行にその語が無く、書誌の語としては立ちません※4

後世の手#

★本台帳は、真偽や解釈の当否を判定しません(資料室規程 第4条)。判定が割れる場所、または判定できない場所を示します。

  1. 写本で伝わる文献に共通する前提——写し間違い、注記の本文への混入、脱落定説。この本について具体的にどこで起きたかを書いた機関の記述に、本台帳は到達していません。内閣文庫の目録の「有欠」(137-0182・137-0188)は、冊が欠けていることを示すだけです。
  2. 編纂の手——この本は編者が六国史を「抄録」し、六国史以降を「収め」たものです(龍谷大学)。抄録は、それ自体が後世の手です。 10世紀の奏文がこの本に入るとき、何が削られ、何が整えられたかは、この解題からは分かりません※1。
  3. 刊本の傍注——通史⑧が引いた940年2月25日条の「陸奥軍士」に、『大日本史料』の刊本は傍注「常陸」を付け、969年3月25日条の「橘繁延」「源連」には傍注「橘敏延・源連カ」「敏カ、下同ジ」を付けています【定説:刊本の記載として・機械判読】。傍注が校訂の断定か疑いかは凡例に当たっていないので決めません。写し違いか、元の記録の字かも、決まっていません。
  4. 偽書説・錯簡の指摘——当たった機関(龍谷大学・国書データベース・書陵部・内閣文庫・国立国会図書館)の公開面に記述はありません。無いことの確認であって、無いことの証明ではありません。

どこで読めるか#

この台帳は、原文も現代語訳も置きません。読める場所を指し示します(資料室規程 第1条)。

  • 龍谷大学図書館 貴重資料画像データベース——https://da.library.ryukoku.ac.jp/page/210713 。万延元年刊『校訂日本紀略』(山崎知雄校・5冊・「カット数 531」)の画像を IIIF(https://da.library.ryukoku.ac.jp/iiif/210713/1/manifest.json )で公開しています【定説:ページの記載として】。★公開されているのは刊本であって、写本ではありません
  • 国立公文書館デジタルアーカイブ(内閣文庫)——写本4件・刊本4件(上の表)。詳細画面は請求番号 137-0183 が https://www.digital.archives.go.jp/file/1232498 、137-0184 が https://www.digital.archives.go.jp/file/1232497
  • 宮内庁書陵部 図書寮文庫(書陵部所蔵資料目録・画像公開システム https://shoryobu.kunaicho.go.jp/ )——谷森本(https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000509460001 )ほか
  • 国文学研究資料館 国書データベース——著作詳細 https://kokusho.nijl.ac.jp/work/50099?ln=ja (取得 2026-09-16。★2026-09-29 の無人の取材では検索画面の本文が出ず、届いていません)
  • 校訂本——『新訂増補国史大系』第10巻・第11巻(吉川弘文館・1965年)。国立国会図書館サーチの書誌 https://ndlsearch.ndl.go.jp/search?cs=bib&keyword=%E6%96%B0%E8%A8%82%E5%A2%97%E8%A3%9C%E5%9B%BD%E5%8F%B2%E5%A4%A7%E7%B3%BB%20%E6%97%A5%E6%9C%AC%E7%B4%80%E7%95%A5 。★通史⑧が引いた将門・安和の条がどの巻・頁にあるかは、目次に届いていません※4
  • 通史⑧が実際に読んだ本文——東京大学史料編纂所『大日本史料』第一編之七 p.623–624(940年2月25日条)・第一編之十二 p.367(969年3月25日条)の刊本画像(史料編纂所 SHIPS Image Viewer https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/ ・2026-09-08/09-10 取得)。『日本紀略』の校訂本そのものではなく、『大日本史料』が引いた形の本文です

典拠にするときの注意#

★この台帳自体は、記事や論文の典拠にできません。 典拠は元の史料と機関の記述を直接あげてください(資料室規程 第5条)。

  1. 「日記」「同時代の記録」と書かないでください。 機関の語は「歴史書」「編年体」「編者不詳」「通史」「雑史・実録」です。通史⑧の初版は「貴族の日記」と書いて訂正しました(2026-09-16)。「平安時代後期/末期に成立したとされる編者不詳の編年体の歴史書に収められた、10世紀の記事」として引いてください。 940年の奏文が元の形のまま入っているかどうかは、機関の記述からは言えません
  2. 成立の語を1つに丸めないでください。 「平安時代後期に成立したとされる」と「平安時代末期に編纂された」の2つが、同じ機関の解題に並んでいます。年を書かないでください(どの機関にもありません)
  3. 通史⑧が引いた本文は、『大日本史料』の刊本を機械で読んだものです。 『日本紀略』の校訂本(『新訂増補国史大系』)と突き合わせていません※4。人の目による校閲も経ていません。将門・安和の頁は別の読み手2つ(機械)と突き合わせて字は一致しましたが、それは校閲ではありません。引くときは、『大日本史料』の編・頁を添え、「刊本を読んだ」と書いてください
  4. 傍注は本文ではありません。 「陸奥(常陸)」「橘敏延・源連カ」は刊本の編者の注で、『日本紀略』の字は「陸奥」「橘繁延」「源連」です。傍注の語を『日本紀略』の本文として引かないでください
  5. 綱文は史料編纂所の編纂物で、この本の本文ではありません。 将門の死の日付は綱文「十四日」・奏文「今月十三日」で1日違います。「13日に戦い、14日に死んだ」はこの媒体の側の読みで、『日本紀略』はそう書いていません
  6. いま読めるものまでの距離を、年数で書かないでください。 書写の年代が目録に無い写本と、1860年の刊本までです。「◯◯年後の写し」の形は、この本については使えません

この台帳の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1この記事では手が回っていない六国史以降の部分(10世紀の将門・安和の条を含む)が何に依拠したか。編者不詳の理由。② 未着手——龍谷大学の展観解説2本・内閣文庫の目録詳細(解説欄なし)・書陵部の目録(解説欄「-」)に当たり、公開面に展観解説より詳しい記述は無かった。次の経路:『新訂増補国史大系』の解題(紙。★第10巻か第11巻かは書誌の語で決まらず・※4)、『国史大系書目解題 下巻』(皆川完一・山本信吉編・吉川弘文館・2001・国立国会図書館サーチの書誌の行として立つ。開いていない)/国書データベースの著作注記「日本古典文学大辞典に解説あり」(紙)奏文がどういう形でこの本に入ったかを書けるようになる
※2この記事では手が回っていない江戸期より古い写本の有無と、最古の写本の年代。② 未着手——書陵部の目録は90件のうち1〜50件のみ(ページ送りのパラメータが分からず、2ページ目が1ページ目を返した)。内閣文庫の目録は年代の記載なし。国書データベースの所蔵者一覧は 2026-09-29 の無人の取材では届かなかった(検索画面の本文が出ない)。次の経路:書陵部の残り40件/国書データベース(ブラウザのある回)/国立歴史民俗博物館・東京大学史料編纂所の所蔵目録「書かれた時と、いま読めるものの間」を年数で書けるようになる
※3この記事では手が回っていない万延元年刊本の底本(凡例)。① 到達不可(画像のみ)——龍谷大学の IIIF 画像(531コマ)はあるが、凡例のコマを読むのはこの回の範囲外(読んだ本文の節は底本のコマまで届いた場合だけ置く)刊本と写本の関係を書けるようになる
※4この記事では手が回っていない『新訂増補国史大系』の巻と頁(将門・安和の条がどこにあるか)、第10巻・第11巻と前篇・後篇の対応。① 到達不可(この経路では)——国立国会図書館サーチの書誌の行まで。同館デジタルコレクションの資料ページは無人では本文が出ない(明治の『国史大系』第5巻の目次も同じ)。次の経路:ブラウザのある回、または書誌の詳細画面から各巻をたどる通史⑧が引いた本文を、『日本紀略』の校訂本の頁で示せるようになる
—この記事では手が回っていない偽書説・錯簡・後世の加筆の指摘(機関の記述)。当たった5機関の公開面に無い「後世の手」に具体を書けるようになる

改訂履歴#

  • 2026-09-29 初版。席(ウタガウ)が起草(伝来・写本・目録)。刊本・校訂本の書誌の所在は同日の席(ホル)の取材による。逐語の出所は records/到達記録 2026-09-29 ウタガウ(日本紀略・小右記・御堂関白記・将門記の伝来).md・records/到達記録 2026-09-29 ホル(同・刊本・DB・本文).md・records/到達記録 2026-09-16 ウタガウ(史料の性格・写本・綱文).md 項目1。★無人の取材で、逐語は取得したページの文字列から写したもので、画面でも画像でも人の目でもない。「読んだ本文(対照)」の節は、底本のコマまで届いていないので置かない(資料室規程 改訂 v2 第1条の2)。