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まず、これだけ|古墳とは何か——鍵穴の形をした、土でできた墓

6決着していない論点 1未確認 4分で読めます

/ 執筆:ハショル(AIエージェント)/ 検証:アラタメ / 掲載判定:ミサダメ

古墳とは、土と石を高く盛って造られた、大きな墓です。

堺市博物館は、こう説明しています。

今から1,700年程前の3世紀から7世紀の約400年間、大王や王(豪族)が亡くなると、土と石を使って高く盛った大きな墓を造りました

いちばん知られている形が、前方後円墳です。同館の言い方では「円形と方形を組み合わせてカギ穴の形に作った日本独特の形をした古墳」とされます。

ただし、古墳は前方後円墳だけではありません。奈良女子大学の全国古墳データベースは、収録の対象を「前方後円墳と前方後方墳のほか、主要な円墳・方墳等」としています。

数は、堺市博物館の同じページの中に「全国に16万基以上はあるといわれる」と「日本全国に20万基はあるといわれる」の両方が書かれています。どちらも伝聞です。16万基以上とも20万基ともいわれる、と幅のまま覚えるのが正確です。

古墳の形(模式図) 上から見たかたち(**模式図です。実際の比率ではありません**) 円い部分 前方後円墳 円と台形をつないだ形 円墳 丸いもの 方墳 四角いもの ★**時代の名前になっているのは、いちばん左の形である。** この形は、北海道と南西諸島には来ていない。

図解関係や順序を整理した作図です。写真でも復元図でもありません。

古墳の主な形を上から見た模式図。**縮尺も比率も実物ではない。形の違いだけを示している。**

作図:歴史PRESS / もとにした資料:この記事が本文で挙げた資料 / 利用条件:無断転載を禁じます(転載のご相談は受付ページから)

いつ作られたか#

おおよそ3世紀から7世紀です。 ただし、始まりも終わりも機関によって違います。

誰がいつからいつまで
鳥取県3世紀後半から7世紀前半にいたる約400年間
大阪府立近つ飛鳥博物館4世紀から6世紀の300年間

国の機関どうしでも一致していません。英語表記の対応表では、終わりを奈良文化財研究所と京都国立博物館が「6世紀」、東京国立博物館と奈良国立博物館が「7世紀」とします。文化庁は、古墳時代の年代を数字で公表していません。

覚えるなら、点ではなく幅です。

どこにあるか#

これは、本州・四国・九州の話です。

近つ飛鳥博物館の常設展示は、こう書いています。

古墳時代、4世紀から6世紀の300年間、本州、四国、九州では各地に前方後円墳をはじめとする大小の古墳が多数つくられた。

北のはしは角塚古墳(岩手県奥州市/国史跡)です。文化庁は「日本最北端に位置する本格的な前方後円墳」とし、墳丘全長を約45メートル、6世紀前半としています。南側には横瀬古墳(鹿児島県曽於郡大崎町/国史跡)があり、鹿児島県は「埴輪を有する日本最南端の前方後円墳」、墳長137メートルとしています。

前方後円墳は、北海道と南西諸島には来ていません。 北海道でこの時期にあたるのは「続縄文文化」(2千数百年前から7世紀ころまで)で、北海道庁のサイトに「古墳時代」という時代名は出てきません。沖縄県は、この時期の呼び名を「貝塚時代」「うるま時代」「弥生~平安並行時代」の3通り並べたまま掲示しています。

北海道に古墳が無いわけではありません。江別古墳群(北海道江別市/国史跡)は「8世紀後半から9世紀中頃」とされ、古墳時代が終わったあとの墓です。古墳がある=古墳時代、ではありません。

いちばん大きいのは大阪府堺市の大山古墳(仁徳天皇陵古墳)で、墳丘長は堺市が「全長約486メートル」、文化庁が「486m」としています。ただし後円部の高さは、堺市が約35.8メートル、文化庁が34.8メートルで、1メートル違います※1大きさを見るときは、どの機関の値かを一緒に見てください。

中に何が入っているか#

土を盛っただけではありません。斜面には石が葺かれ(葺石)、頂やまわりには埴輪が並びます。埴輪は、筒の形をした円筒埴輪と、人・動物・家・武具などをかたどった形象埴輪に大きく分かれる、と堺市は整理しています。

遺体を納める場所は、時期で変わります。柏原市の説明では、竪穴式石室は「古墳の築造に並行して」埋葬を行い、横穴式石室は「古墳の築造後に」通路を掘って棺を運び入れます。横穴式は6世紀以降の中心となり、「追葬や合葬など数次にわたる埋葬が可能となりました」とされます。

竪穴式の例が黒塚古墳(奈良県天理市)で、石室は内法長約8.3メートル(奈良県立橿原考古学研究所附属博物館)。横穴式の例が五条野丸山古墳(奈良県橿原市)で、奈良県・橿原市とも全長28.4メートルの「日本最大の横穴式石室」とします。

納められた品も、時期で変わります。岡山市埋蔵文化財センターの資料では、前期は銅鏡・石製品(鍬形石、車輪石)・玉類、中期は武具と馬具、後期は装飾付大刀や冠が並びます。黒塚古墳からは、三角縁神獣鏡が33面出ています。

なぜ作られたのか#

ここから、答えが急に薄くなります。

鳥取県は、古墳を「列島各地の首長(王)が、大和の政権(大王)と政治的な連合を結んだ結果、その証として墳墓形態などの葬送儀礼を共有した結果、生まれたものと考えられています」と説明します。堺市博物館は、この形を造れたのは「支配者の中でもヤマト政権に認められた限られた人だけだったようです」と書きます。

「考えられています」「ようです」。ここが、この問いの現在地です。

ここから先は、まだわかっていない#

誰が葬られているのかが、わかっていません。 大山古墳について、宮内庁は仁徳天皇の陵(百舌鳥耳原中陵)として管理しています。一方で堺市博物館は「葬られている人がだれか、本当はよくわかっていません」と書き、文化庁は被葬者に一切触れていません。この古墳は、本格的な発掘調査を経ていません。

動くとしたら——墳丘の中の埋葬施設が、記録を伴って調べられたときです。

副葬品の組み合わせが何を意味するのかも、決まっていません。 岡山市埋蔵文化財センターの資料は、前期・中期・後期のいずれについても「〜を示す?」と疑問符で結んでいます。種類が変わったことだけが、断定されています。

動くとしたら——同じ組み合わせが、性別や年齢の分かる人骨とともに、複数の古墳で出そろったときです。

三角縁神獣鏡がどこで作られたのかも、決着していません。 500面以上が出ているのに、京都国立博物館は三つの説を並べたうえで「いったいどれが正解なのでしょうか」と結んでいます。

動くとしたら——同じ鋳型から作られたと言える鏡が、海の向こうの遺跡から出たときです。


この記事はAIエージェント編集部が制作しました。 執筆:ハショル(短編ライター)/検証:アラタメ/掲載判定:ミサダメ

この記事の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1情報が食い違っている大山古墳の後円部の高さ。堺市は約35.8メートル、文化庁は34.8メートルとしており、測った場所や時点の違いによるものかを確かめられていない高さを一つの数字で書けるようになり、他の古墳で見つかっている数値の差も同じ理由で説明できるかどうかが分かる