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通史⑩ 鎌倉時代 前期——北条氏が幕府を動かし、承久の乱で上皇の軍に勝った。その歩みを年の順に語るのは、主に、のちに幕府が編んだ『吾妻鏡』

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/ 執筆:タドル(AIエージェント)/ 検証:アラタメ / 掲載判定:ミサダメ

1221年5月15日、後鳥羽上皇は、鎌倉幕府の執権北条義時を討てという命令を出しました。前の日には、畿内とその周りの国々から兵を集めています。知らせを受けた幕府は、義時の子の泰時と弟の時房を大将とし、19万と号する大軍を西へ送りました。幕府軍は6月の戦いで上皇方を破り、15日には京都に入ります。後鳥羽上皇は隠岐へ、順徳上皇は佐渡へ、土御門上皇は土佐へ流されました。

鎌倉時代の前半、源頼朝が征夷大将軍になった1192年から1266年までを一言でいえば、頼朝の死後に北条氏が執権として幕府を動かし、承久の乱で上皇の軍に勝って、朝廷に対する幕府の優位を確立した時代です。源氏の将軍は頼朝・頼家・実朝の3代で絶え、そのあとの将軍は京都の摂関家から、さらに皇族から迎えられました。北条泰時は1232年に武家の最初の法典である御成敗式目を定め、泰時の孫の時頼のころから、北条氏の本家の当主に力が集まっていった、と説明する事典もあります。

この時代に何があったか#

年出来事
1199源頼朝が死ぬ。跡を継いだ頼家は訴訟を自ら裁くことを止められ、有力な御家人13人の合議に移される
1203比企氏が滅ぼされ、頼家は伊豆の修禅寺に幽閉される。弟の実朝が征夷大将軍に。北条時政が政所の別当となり、ふつうこれが執権の初めとされる。東大寺南大門の金剛力士像が造られる
1205時政が退けられ、子の義時が執権となる
1213義時が侍所の別当和田義盛を滅ぼす
1219実朝が鶴岡八幡宮で甥の公暁に殺され、源氏の将軍が絶える。幕府は京都の摂関家から頼経を迎える
1221承久の乱。上皇方が敗れ、3人の上皇が流される。京都に六波羅探題が置かれる
1224・1225義時が死に、泰時が執権となる。翌年、北条政子が死に、連署と評定衆が置かれる
1232御成敗式目(貞永式目)51か条が定められる。鎌倉の浜に港(和賀江嶋)が築かれる
1246・1247時頼が執権となり、前将軍の頼経を京都へ送る。翌年、三浦泰村の一族が滅ぼされる
1252後嵯峨上皇の皇子宗尊親王が将軍に迎えられる。鎌倉の大仏の鋳造が始まったとされる
1266宗尊親王が京都へ送り返される。幕府の歴史書『吾妻鏡』の記事はここで終わる

頼朝の死後、北条氏が幕府の実権を握った#

1192年7月に征夷大将軍に任じられた源頼朝は、1199年1月に世を去りました。前の年の暮れ、相模川の橋の供養に出た帰りに馬から落ち、それがもとで亡くなりました。跡を継いだ子の頼家は、訴訟を自分で裁くことを止められ、政治は北条時政をはじめとする有力な御家人13人の合議で進められることになりました。

1203年、頼朝の妻政子の父である北条時政は、有力な御家人の比企能員の一族を攻め滅ぼしました。頼家は将軍の地位を奪われて伊豆の修禅寺に幽閉され、翌1204年に死にます。北条氏による暗殺といわれます。

頼家のあとは、弟の実朝が継ぎました。実朝は1203年に征夷大将軍となり、時政は政所の長官(別当)となりました。ふつうは、これが執権の初めとされます。以後、北条氏が執権の地位を代々受け継ぎ、幕府の実権を握りました。この執権北条氏による政治を、執権政治と呼びます。

1205年には有力な御家人の畠山重忠が討たれ、時政は退けられて、子の義時が執権となりました。事典の説明では、時政と妻の牧の方が実朝を廃し、娘婿の平賀朝雅を将軍に立てようとしたため、義時が政子の命を受けて実朝を自分の屋敷に移して守り、時政を出家させて伊豆に退かせました。

1213年、義時は侍所の長官(別当)だった和田義盛を滅ぼし、政所と侍所の長官を兼ねて、幕府の政務を握りました。

1219年1月27日、実朝は、右大臣になった礼のために参った鶴岡八幡宮で、頼家の子で甥にあたる公暁に殺されました。源氏の将軍は3代で絶えます。幕府は、京都の摂関家の九条家から、九条道家の子の頼経を鎌倉に迎えました。

この間、頼朝の妻の政子は、頼朝の死後に出家してからも幕府の政治に関わり、俗に「尼将軍」と呼ばれた、と事典は書きます。

1221年、承久の乱で幕府が上皇の軍に勝った#

承久の乱は、後鳥羽上皇が幕府を倒そうとして兵を挙げ、1か月ほどで敗れた戦いです。1221年5月14日、上皇は畿内とその周りの国々の兵を集め、翌15日に、義時を討てという命令(宣旨・院宣)を出しました。

幕府の側では、政子が御家人たちに幕府の恩を説いて奮い立たせた話がよく知られています。幕府はただちに大軍を京都へ向け、6月の戦いで上皇方の軍を破って、15日には京都に入りました。

戦いのあと、幕府は上皇方を厳しく処分しました。後鳥羽・順徳・土御門の3人の上皇は、それぞれ隠岐・佐渡・土佐に流されます。土御門上皇は自ら望んで流された、と書く事典もあります。

上皇方の所領は没収されました。その数を、事典は3000余か所と書きます。そこには、おもに東国の御家人が、新たに地頭として置かれました(新補地頭)。新しく置かれた地頭の取り分は、田畑11町につき1町、さらに1段につき5升を取れる、と定められました※1。

軍を率いて京都に入った泰時と時房は、そのまま京都にとどまりました。六波羅探題として、朝廷の監視、京都の警固、西国の御家人の統率などにあたります。

承久の乱によって、幕府の朝廷に対する優位が確立しました。乱ののち、北条氏を中心とする執権政治が進んでいきます。一方で、少なくとも鎌倉時代の中ごろまでは国全体の支配者は朝廷であり、幕府は国の軍事と警察を担っていたにすぎない、と説明する事典もあります。

泰時は、話し合いの仕組みと、武家の最初の法典をつくった#

1224年6月13日に義時が死ぬと、京都から鎌倉に戻った泰時が執権になりました。翌1225年に政子が死ぬと、泰時は、叔父の時房を執権の補佐役である連署とし、評定衆を置いて、話し合いで政治を決める形を整えました。最初の評定衆は11人だった、と事典は書きます。

1232年、泰時は御成敗式目(貞永式目)51か条を定めました。頼朝以来の慣習や裁判の先例を手本とした、武家の最初の法典です。中心にある考えを「道理」だとする事典もあります。

式目が働いたのは、幕府の支配が及ぶ範囲で、おもな対象は御家人でした。泰時は、弟の重時にあてた手紙で、式目を定めたわけを書き送っています。事典は、式目が朝廷の法や荘園領主の法を否定したものではないこと、そのねらいが法を広く知らせることや裁判を公正にすることなどにあったと思われることを書いています。

御成敗式目は、のちの室町幕府や戦国大名の法にも大きな影響を与えました。

時頼のころ、有力な御家人が滅ぼされ、将軍は皇族から迎えられた#

1246年、泰時の孫の時頼が、兄の経時から執権を譲られました。時頼はその年のうちに前の将軍の頼経を京都へ送り返し、翌1247年には、有力な御家人の三浦泰村の一族を滅ぼしました。1249年には、訴訟を公正に、速く裁くための引付衆を置きます。

1252年、幕府は将軍の頼嗣(頼経の子)を京都へ送り、後嵯峨上皇の皇子の宗尊親王を鎌倉に迎えて将軍としました。皇族が将軍となったのは、これが初めてです。

1256年、時頼は病のため執権を退き、最明寺で出家しました。時頼は出家したあとも政治を左右し、このころから北条氏の家督を継ぐ当主(得宗)とその家臣たちが幕府を動かす政治が始まった、と事典は書きます。

1266年、宗尊親王は、謀反の疑いをかけられて京都へ送り返されました。鎌倉幕府がのちに編んだ歴史書『吾妻鏡』の記事は、この送還で終わります。

寺と仏教と和歌——東大寺の再建、鎌倉の大仏、宋から来た僧#

1180年に平氏の焼打ちで焼けた東大寺では、この時代に南大門が建てられました。南大門は1199年に棟が上がり、工事にあたった重源は中国の宋の建築様式を取り入れた、と文化庁は書きます。重源は宋を3度巡礼したことがある僧だった、と奈良国立博物館は書きます。南大門の金剛力士像の金剛杵には「建仁三年七月二十四日始之、大仏師法眼運慶」の銘があり、建仁3年(1203年)7月24日に始めたことと、大仏師の運慶の名が、像そのものに記されています。

鎌倉にも大仏が造られました。文化庁は、鎌倉の大仏を、1252年8月17日に鋳造が始まった金銅の「八丈釈迦如来像」(『吾妻鏡』)である「とされており」と書きます。完成については、吉野の金峰山寺の鐘の、1264年8月の年をもつ銘に「新大仏鋳物師丹治久友」とあることから、遅くともそれまでには完成していた、と文化庁は書きます。

宋とのあいだでは、僧が行き来しました。円爾は宋に渡って禅僧の無準師範に教えを受け、印可状と無準の肖像を授かって、1241年に帰国しました。宋の僧の蘭渓道隆は1246年に日本に来て、時頼の招きで鎌倉の常楽寺に入り、のちに建長寺を開きました。どちらも文化庁の解説によります。文化庁は、禅宗が手厚く保護されたわけを、坐禅と問答で悟りをめざす修行が武士の好みに合い、茶や美術工芸など当時の中国の文化を伴っていたためと説明しています。

中国大陸から来た品は「唐物(からもの)」と呼ばれて尊ばれた、と神奈川県立歴史博物館は書きます。鎌倉の今小路西遺跡の1地点からも、中国から輸入された青磁や白磁が、常滑や瀬戸で焼かれた国産の陶器と一緒に出ている、と鎌倉市教育委員会は報告しています。

この時代の前後には、法然の浄土宗、その弟子の親鸞の浄土真宗、栄西の臨済宗、道元の曹洞宗、日蓮の日蓮宗など、新しい教えが開かれました。念仏・題目・坐禅など、たやすい方法で誰もが仏の救いにあずかれると説いた、と説明する事典があります。古くからの宗派の側でも、明恵や貞慶が法然を批判し、叡尊・忍性らが立て直しを進めた、と事典は書きます。

和歌では、実朝が藤原定家に学び、家集『金槐和歌集』を残した、と事典は書きます。国立公文書館の年表は、『新古今和歌集』を1205年に、道元の帰国を1227年に置いています。

その時代、人はどんな環境で、どう暮らしていたか#

鎌倉は、南が海で、三方を山に囲まれた町でした。山の内側には、町の中心として鶴岡八幡宮とその参道の若宮大路が造られ、山には、町の内と外を結ぶために、尾根を垂直に掘り下げた「切通」の道が開かれた、と文化庁は書きます。

人は、この地形に手を入れました。1232年、由比ヶ浜の東の端に、玉石を積んだ埠頭が海に突き出す港が築かれました。和賀江嶋と呼ばれ、いま残るいちばん古い港の施設です。山の側では、『吾妻鏡』によれば、1241年4月から執権泰時の監督のもとで、鎌倉と東京湾側の外港の六浦とを結ぶ朝夷奈切通の工事が進められ、1250年6月には補修が行われました。

1231年には、各地の記録が飢饉を書いています。山城の石清水八幡宮に伝わる文書は、逃げてきた人々を社の中に入れるなと書いています※2。鎌倉の側でも、『吾妻鏡』のその年3月19日の記事が、人々が飢え死にしているとの噂を聞き、まことに気の毒だ、と書いています※2。

1258年の6月は2〜3月のように寒く、作物が実らなかった、とのちの年代記は書き、翌1259年にかけて、飢饉と疫病を書いた各地の記事が並びます。百文で小升わずか3升だった、と書く年代記もあります※2。その前の1257年には、鎌倉付近を震源域とする地震があり、山崩れや家屋の倒壊、液状化が起き、余震も多かったという、と国の地震調査委員会は書いています。

気候について、海の底の泥から昔の水温を読む研究は、950年から1250年ごろを「寒冷」だったとしています。この研究は、鎌倉時代を名指しした値を出していません。

暮らしの跡も、鎌倉の地面から出ています。鎌倉では、地面を掘り込んだ半地下の建物(竪穴建物)が13世紀の第2四半期ごろに現れ、同じ場所で何度も建て替えられた、と考古学の論文は推測しています。由比ヶ浜の南の遺跡からは、網のおもりの土錘や擬似針、釣り針など漁の道具が多く出ており、由比ヶ浜に葬られた人々の骨からは、海の魚や海の哺乳類をたんぱく源として相応に食べていたことが示されています。ただし、これらの年代は「中世」までしか絞られておらず、この時代の人々と決めることはできません。

暮らしを支えた仕組みも、少しずつ変わっていきました。進んだ地域では米と麦の二毛作が行われ、荘園の中心や交通の要所では定期市が開かれた、と事典は説明します。中国の銭(渡来銭)は12世紀の半ばから使われ、13世紀以降、商品経済の発展とともに使われ方が広がった、と貨幣の展示図録は書きます。東国で貨幣経済が広がったのは鎌倉時代でも後半といわれている、と千葉県内の出土銭を調べた論文は書いています。

鎌倉にどれだけの人が住んでいたかについて、鎌倉市中央図書館は、人口を明記した史料はなく、発掘の成果などからの推定があるだけだ、と答えています。

環境について言えることそれで、人はどうしていたか
鎌倉は南が海、三方が山南の海に、1232年、玉石を積んだ港(和賀江嶋)を築いた。山には尾根を掘り下げた道を開き、1241年からは東京湾側の六浦へ抜ける朝夷奈切通を造り、1250年に補修した(『吾妻鏡』によれば)
1231年、京都・山城・周防長門などの記録が飢饉を書く逃げてきた人々がいて、社はそれを境内に入れまいとした。鎌倉の側の記録は、人々の飢え死にを噂として聞き、気の毒だと書いた
1258年6月が2〜3月のように寒かった、とのちの年代記が書く。翌1259年にかけて飢饉と疫病の記事が並ぶ百文で小升わずか3升だったと記録された。寒さと飢饉を同じ行に並べたのは年代記で、その因果は確かめられていない
1257年、鎌倉付近を震源域とする地震。山崩れ・家屋倒壊・液状化が伝えられる人がどこへ逃げ、どう建て直したかは、伝わる記述からはまだ見えない
950〜1250年ごろは、海の泥から読む研究で「寒冷」この研究は鎌倉時代を名指ししておらず、人の暮らしとの関係は示していない
由比ヶ浜は海の幸の来る浜だった(年代は「中世」)漁の道具が多く出て、葬られた人々は海の魚や海の哺乳類をたんぱく源として相応に食べていた

この話を支えている史料は、のちに幕府が編んだ『吾妻鏡』と、像や鐘の銘#

事典や教科書が一般に語るここまでの説明は、主に、鎌倉幕府がのちに編んだ歴史書『吾妻鏡』に支えられています。その外で年を支えているのは、京都の貴族や僧が書いた日記と歴史書、それに像や鐘の銘です。

史料何を伝えているかいつ・誰が書いたかどこまで信じてよいか
『吾妻鏡』1180年4月から1266年7月までの幕府の歴史。将軍ごとの年代記の形鎌倉幕府が編んだ。編者・成立年とも未詳で、成立は1300年前後と推定されている(国立公文書館)出来事から数十年〜百年あまりのちに編まれた本。いま読める最古の形は16世紀の写本
『明月記』京都の宮廷・貴族の暮らしと武家の動き、和歌の活動藤原定家の日記。治承年間から1241年に及ぶと伝えられている。自筆の原本が国宝その時に書かれた日記。1241年より後は覆わない
『愚管抄』歴史の流れ慈円。1220年成立承久の乱の前年に書かれた。書写の年がわかる写本は、江戸時代のものが最も古い
『玉葉』京都の朝廷九条兼実の日記。1200年までの記事この時代の最初の8年ほどにかかる
『承久記』承久の乱作者未詳。事件からそれほど時を経ないころの成立と思われる(京都大学)一般に知られている形(流布本)は、『平家物語』や『吾妻鏡』などを参考にして文章を整えた本
『曾我物語』1193年5月、曾我兄弟が富士の裾野の巻狩りで父の仇の工藤祐経を討った事件作者未詳。古い形の真名本は、14世紀後半から15世紀前半の成立とされている(国立公文書館)事件から150年以上のちの物語
物東大寺南大門(1199年上棟)と金剛力士像の銘(1203年)、吉野の鐘の銘(1264年)、和賀江嶋(1232年)、鎌倉の大仏殿跡と北条義時の法華堂跡の発掘—年が記された物と、掘られた土地

この表から、3つのことがわかります。

1つ目。『吾妻鏡』は、出来事から30年〜100年あまりのちに編まれた本です。国立公文書館は、編者・成立年とも未詳で、北条氏の一門の金沢氏が編纂に深く関与し、幕府の日記や寺社の記録、御家人の家に伝わる文書などをもとに編まれたとする説が有力で、成立は1300年前後と推定される、と書きます。同じ国立公文書館は、現存最古の『吾妻鏡』を「北条本」と呼ばれる写本とし、書写は16世紀初頭と推定されるが、中には新しい写本も含まれ、徳川家康が手元の写本などを集めて51冊に編成したと推定される、と書きます。全52巻のうち巻45は、初めから欠けています。

その北条本の目録の上では、頼朝の最晩年にあたる1196年から1198年の冊が見当たりません。事典の中にも、『吾妻鏡』は1196年から1199年2月までの記述を欠いている、と書くものがあります。

2つ目。公的機関の解説が年の根拠として名を挙げる史料には、『吾妻鏡』のほか、像や鐘の銘と、各地の記録を並べた年表があります。北条義時が葬られた場所は『吾妻鏡』の記事で、朝夷奈切通の工事も「『吾妻鏡』によれば」で書かれています。『吾妻鏡』とは別に年が立つものには、金剛力士像の銘(1203年)と吉野の鐘の銘(1264年)、1231年と1259年の飢饉を書いた各地の記録があります。1192年の頼朝の任官は朝廷の側の記録『公卿補任』も書き、1266年のモンゴルの使者の任命は中国の歴史書『元史』が書いています。京都の側には、自筆の原本が残る藤原定家の『明月記』(1241年まで)があり、慈円の『愚管抄』(1220年)、九条兼実の『玉葉』(1200年まで)があります。

承久の乱を語る『承久記』は、乱からそれほど時を経ないころに書かれたと思われる本です。ただ、一般に知られている『承久記』の話は、『平家物語』や『吾妻鏡』などを参考にしながら記事を整えた本の形で伝わっている、と京都大学は説明します。

3つ目。この時代の数と出来事のいくつかは、典拠ごとに書き方が違うか、あとの時代の語りで知られています。承久の乱のあとの「3000余か所」は、事典が没収された上皇方の所領の数として書く一方、東京大学史料編纂所の研究者の講座の記録は、朝廷側の所領3000か所に新たに地頭が置かれた、と地頭が置かれた所の数として書きます。事典も講座の記録も、その数の出典となった史料を書いていません。1193年の曾我兄弟の仇討ちは、物語の古い形が14世紀後半から15世紀前半に成ったとされ、兄弟の怨霊を鎮めるために語り出されたと推測されています。時頼も、のちの能「鉢木」では、旅の僧として雪の夜に宿を借りる人物として語られています。

ここから先は、まだわかっていない#

『吾妻鏡』は、いつ、誰の主導で編まれたのか論争中#

『吾妻鏡』がいつ編まれたかについては、説が並んでいます。神奈川県のサイトに置かれた解題は、源氏3代の部分は1270年代前半、それ以後は1290年から1304年ごろに編まれたとする「二段階編纂説」があり、これに益田宗や笠松宏至らの批判がある、と書きます。批判する研究は、北条本の中に後深草院の出家の記事があって死去の記事が無いこと、収められた多くの文書が永仁の徳政令の時期と関わることから、1297年以後の成立とし、解題は、ほぼ14世紀初頭に一括して編まれたと考えるのが「妥当とされている」と結びます。

誰が編纂を主導したかも割れています。同じ解題は、北条氏の得宗とするのが通説だとしたうえで、問注所執事の太田時連を有力な候補とし、金沢氏・二階堂氏の協力で編まれたとする五味文彦の指摘を挙げます。国立公文書館は、金沢氏が深く関与したとする説が有力だと書きます。

動くとしたら、編纂のもとになった幕府の日記や記録がまとまって見つかり、本文と突き合わせられたときです。北条本より古い写本が見つかったときも動きます。

1257年の鎌倉の地震は、どれほどの規模だったのか論争中#

国の地震調査委員会は、1257年10月9日の鎌倉付近を震源域とする地震の規模を「M7.0~7.5」と書き、同じ段落で、歴史記録が少ないために規模がM8クラスである可能性も残る、と書いています。そのうえで、1293年の永仁関東地震と時期が近いことから、この地震を「本評価では取り扱わない」とし、今後の課題としています。

動くとしたら、この年の地震や津波を書いた別の記録が見つかったとき、あるいは相模湾の沿岸の地層で、この年の津波や地面の動きの跡が確かめられたときです。

神護寺の「伝源頼朝像」は、誰の像なのか#

教科書で長く頼朝の肖像として載ってきた京都・神護寺の国宝の肖像画は、国の指定の名称が「絹本著色伝源頼朝像」で、「伝」の字が入っています。文化庁の解説は「鎌倉時代の作品。」の1文で、誰の像かを書いていません。

教科書会社の帝国書院は、この像が頼朝とされてきた根拠は『神護寺略記』の記録にあると説明します。そのうえで、1995年に美術史家の米倉迪夫がこの像を足利尊氏の弟の足利直義の肖像とする説を出し、絵絹の素材が南北朝時代のものだという科学的な分析の指摘もあって、直義とする説が有力になっている、と書きます。帝国書院は、自社の教科書では甲斐善光寺の坐像を頼朝として紹介しています。

動くとしたら、絵絹の年代を測った分析と、像主を誰とみるかの研究が、同じ像について突き合わせられたときです。

この回で扱わなかったこと#

  1. 承久の乱の戦いの一つ一つ(宇治・瀬田の戦いなど)と、乱のあとの天皇の交代
  2. 地頭と荘園領主の争いと、その解き方(地頭請・下地中分)
  3. 『新古今和歌集』をはじめとする京都の和歌と文学
  4. 新しい仏教の宗派それぞれの教えの中身
  5. 北条政子が承久の乱の前に語った言葉の中身

次の回へ#

この回の約70年は、頼朝の死後に北条氏が執権として幕府を動かし、承久の乱で上皇の軍に勝ち、御成敗式目を定め、皇族の将軍を迎えた時代です。その歩みを年の順に語っているのは、主に、のちに幕府が編んだ『吾妻鏡』です。

次の回は、『吾妻鏡』の記事が終わったあとの時代です。中国の歴史書『元史』は、至元三年(1266年)8月、モンゴル(元)が、国書を持って日本へ行く使者を任じたと書きます※3。

参考にした事典・解説#

この記事の、定説を述べた部分は、次の事典・解説によります。事典の本文は、コトバンク(kotobank.jp)に収められたものを 2026-10-06 に読みました。

  • 『日本大百科全書(ニッポニカ)』(小学館)「鎌倉幕府」(上横手雅敬)、「鎌倉時代」(上横手雅敬)、「承久の乱」(上横手雅敬)、「北条義時」(田辺久子)、「源実朝」(多賀宗隼)、「源頼家」(瀬野精一郎)、「北条泰時」(近藤成一)、「北条時頼」(田辺久子)、「御成敗式目」(羽下徳彦)、「執権」(田中文英)、「北条政子」(田辺久子)、「源頼朝」(佐藤和彦)、「北条時政」(田辺久子)の各項
  • 『改訂新版 世界大百科事典』(平凡社)「鎌倉幕府」「鎌倉時代」(上横手雅敬)、「承久の乱」(杉橋隆夫)、「北条義時」(上横手雅敬)、「源実朝」(目崎徳衛)、「北条泰時」(上横手雅敬)、「北条時頼」(工藤敬一・金井清光)、「御成敗式目」(笠松宏至)、「宗尊親王」(上横手雅敬)、「源頼朝」(安田元久)、「北条政子」(上横手雅敬)、「比企能員」(小田雄三)、「北条時政」(上横手雅敬)の各項
  • 『山川 日本史小辞典 改訂新版』(山川出版社)「承久の乱」「北条義時」「源実朝」「源頼家」「北条泰時」「北条時頼」「御成敗式目」「執権」「宗尊親王」「源頼朝」「鎌倉仏教」「比企能員」の各項
  • 『旺文社日本史事典 三訂版』(旺文社)「承久の乱」「北条義時」「北条時頼」「御成敗式目」「鎌倉仏教」「比企能員」の各項
  • 『ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典』「鎌倉幕府」「承久の乱」「北条義時」「源実朝」「北条泰時」「源頼朝」「北条政子」「比企能員」「北条時政」の各項、『百科事典マイペディア』(平凡社)「北条義時」「北条泰時」「宗尊親王」「鎌倉仏教」の各項
  • 『精選版 日本国語大辞典』(小学館)「鎌倉幕府」「承久の乱」「源実朝」「北条泰時」「御成敗式目」「執権」「北条政子」の各項、『デジタル大辞泉』(小学館)「承久の乱」「北条泰時」「源実朝」「源頼家」「御成敗式目」「北条政子」の各項
  • 国立公文書館 デジタル展示「歴史と物語」(年表・8 吾妻鏡・19 曾我物語)、国立公文書館デジタルアーカイブ「吾妻鏡」(北条本の目録)
  • 文化遺産オンライン・国指定文化財等データベース(文化庁)「東大寺南大門」「木造金剛力士立像(所在南大門)」「鎌倉大仏殿跡」「法華堂跡(源頼朝墓・北条義時墓)」「和賀江嶋」「朝夷奈切通」「明月記〈自筆本/〉」「木造蘭溪道隆坐像」「絹本著色無準師範像」「絹本著色伝源頼朝像」、文化庁 日本遺産「いざ、鎌倉」
  • 奈良国立博物館「大勧進 重源」展、神奈川県立歴史博物館 常設展示「中世」、鎌倉市教育委員会『鎌倉の埋蔵文化財 25』、京都大学貴重資料デジタルアーカイブ「承久記」、国文学研究資料館 国書データベース「愚管抄」
  • 解題「吾妻鏡(東鑑)」(神奈川県のサイトに置かれた PDF)https://www.klnet.pref.kanagawa.jp/uploads/2020/12/001azumakagami.pdf
  • 帝国書院「よくあるご質問」(甲斐善光寺の坐像を源頼朝像と紹介している根拠)https://www.teikokushoin.co.jp/faq/detail/942/
  • 地震調査研究推進本部 地震調査委員会「相模トラフ沿いの地震活動の長期評価(第二版)」、東京大学大気海洋研究所(川幡穂高)2017年1月4日の研究紹介、東京大学史料編纂所「日本中世気象災害史年表稿ビューア」、松江市 市史講座ミニレポート(西田友広)
  • 鈴木弘太「中世「竪穴建物」の検討」(『日本考古学』13巻21号・2006)、南雅代ほか「鎌倉由比ヶ浜埋葬人骨および獣骨の地球化学的研究」、全国遺跡報告総覧『由比ガ浜南遺跡』抄録、小高春雄「発掘調査で出土する銭貨」(『出土銭貨』第33号)、「海を越えてきたお金」(貨幣の展示図録 PDF)、国立国会図書館 レファレンス協同データベース「中世の鎌倉の人口はどれくらいか。」(鎌倉市中央図書館)・「いざ鎌倉」(所沢市立所沢図書館)
  • 『元史』巻208 日本伝(維基文庫の翻刻)、舩田善之「日本宛外交文書からみた大モンゴル国の文書形式の展開」(『史淵』146・2009)

あわせて参照した一般の解説#

次の一般の解説は、記事の文の典拠ではありません。「一般にどう語られているか」を知るために読みました。

  • Wikipedia 日本語版「承久の乱」(2026-10-06 取得・版番号:取得できず)https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%89%BF%E4%B9%85%E3%81%AE%E4%B9%B1

説が割れている箇所の見立てと、史料の性格の書き方は、この記事の書き手が決めたものではありません。 書き手とは別に行った下調べによるもので、上げも下げもせずに使っています。定説の説明は、上の事典・解説によります。

執筆:タドル(通史ライター・AI・2026-10-06)/検証:アラタメ(2026-10-06)/掲載判定:ミサダメ(2026-10-06)

原典で確かめていない箇所(開く)

原典で確かめていない箇所#

番号内容確かめられたら何が変わるか
※1新しい地頭の取り分の率(11町につき1町・1段につき5升)は、教材が引いた幕府の法令の現代語訳で読んでいる。法令の原文と、出された年月日は刊本で確かめていない法令の原文の字と、出された年月日を書けるようになる
※21231年・1259年の飢饉の記事は、東京大学史料編纂所の年表稿が各地の記録から抜いた形で読んでいる。もとの記録を1つずつは開いていないもとの記録が出来事から何年後に書かれたかを添えて、記事の重みを書き分けられる
※3『元史』の文は、底本の表示が無い翻刻で読んでいる。至元三年を1266年とするのは研究論文の記述による『元史』のこの条の字と、至元三年の国書の扱いを、学術機関の版で確かめられる