資料室 / 中国の正史(四夷伝を含む)

『晋書』

7世紀(唐)成立 / 2026-07-31

ここに史料そのものは置いていません。これは「この史料をどこまで信じてよいか」の台帳です。原文も現代語訳も載せず、どこで読めるかを案内します。この台帳自体を、記事や論文の典拠にはしません。

どんな史料か#

西晋と東晋の歴史を記した中国の正史。唐の太宗の勅により、房玄齢らが撰したものとして伝わります定説。 全130巻、内訳は帝紀10・志20・列伝70・載記30です有力説※1

その列伝のなかに四夷伝があり、東夷の項に倭人の記事が置かれています※2

★この史料でまず押さえるべきことは、成立が7世紀(唐)であることです。

『晋書』が扱うのは3世紀後半から5世紀前半です。それを7世紀の唐が書いています。 日韓歴史共同研究委員会(第1期)第1分科の報告書に収められた濱田耕策「4世紀の日韓関係」は、 『晋書』を「当該の時代から300年程後の編纂」と書いています【定説:記述の事実として】。

同時代の記録ではありません。 ここは、5世紀の倭を5世紀末に書いた『宋書』(S-J002)と対照的です。

★成立年は、事典どうしで割れています#

この史料でいちばん先に食い違いが出るのは、成立年です。論争中※1

どの事典が何年と書いているか
国史大辞典(吉川弘文館。ジャパンナレッジの項目紹介で公開されている本文)「唐太宗の勅命(貞観二十年(六四六)閏三月)により、司空房玄齢・中書令遂良以下三十余名の高官・学者が参加し三年たらずで完成奏上された」
山川 日本史小辞典 改訂新版646年撰修開始、648年成書
デジタル大辞泉646年成立
改訂新版 世界大百科事典「唐の太宗の648年
ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典貞観18(644)年成立

★646年と648年は、たぶん食い違っていません。有力説 山川と国史大辞典の書き方を採れば、646年は勅命(着手)の年、648年は完成の年になります。 「646年成立」と「648年成立」は、同じ一つの経過の、別の端を採っているだけと読めます。

★ただし、ブリタニカの644年は、この読み方では揃いません。 どれが正しいかは、本台帳では判定しません(資料室規程 第4条)。 記事で年を書くなら、「勅命の年」なのか「完成の年」なのかを添えてください。

★この史料は、ある言い方を一つ壊します#

「魏志倭人伝の最後の記事は266年」——この言い方は成り立ちません。有力説

  • 泰始は、魏の年号ではありません。西晋の年号です定説

年号が西晋である以上、その記事は『三国志』魏書(S-J006)の中には置けません

  • 藤井寺市 文化財保護課は、倭人条の終わり方を

「最後に卑弥呼の死後、政情が不安定となりますが、台与(とよ)の擁立でやっと安定を取り戻したことで記述が終わっています。」 と書いています【定説:記述の事実として】。266年の遣使では終わっていません

  • 石井正敏「5世紀の日韓関係-倭の五王と高句麗・百済-」(同じ報告書)は、

「泰始2年(266)に倭の女王(卑弥呼の宗女台与)が西晋に朝貢して以来、絶えて行われなかった中国王朝への朝貢が再開された」 と書いています【定説:記述の事実として】

★つまり266年(泰始2年)は、『晋書』の側の年です。有力説※2

該当箇所として流布しているのは、巻3 武帝紀の「十一月己卯,倭人來獻方物」と、 巻97 四夷伝 東夷 倭人条の末尾「泰始初,遣使重譯入貢」です。 ★ただし本台帳は、この2箇所を校訂本で確認できていません※2。 ここに挙げたのは所在を指し示すための字句であって、本文の翻刻ではありません(資料室規程 第1条)。

★空白が明ける年も、この史料の中にあります#

『晋書』巻10 安帝本紀 義熙9年(413年)条として引かれる記事があります※2。 石井正敏は、この413年をめぐって見解が割れることを、こう書いています【定説:記述の事実として】。

「413 年の倭国使が倭からの正式使者ではないとする意見では、倭の中国王朝への入貢の再開は421 年【史料4】のこととなる。わずかに8年の差に過ぎないが、前者の王朝は東晋、後者は宋となる。

★413年を倭の正式な使者と認めるかどうかで、相手の王朝が東晋か宋かまで変わります。論争中※3 421年を採る場合、典拠は『晋書』ではなく『宋書』倭国伝(S-J002)になります。

原本はあるか#

★ありません。そして、この史料には隔たりが二重にあります。

1つ目の隔たり——出来事と、編纂のあいだ。

出来事は3〜5世紀、編纂は7世紀。濱田耕策の表現で「300年程後」です【定説:記述の事実として】。

2つ目の隔たり——編纂と、いま読める本文のあいだ。

房玄齢らが撰した時点の原本は現存しません定説。 現在読まれている本文は、後世の刊本(版本)を経て伝わったものです有力説。 中国の正史は宋代以降に繰り返し刊行され、校訂を重ねて伝わっています有力説『晋書』について、現存する最古の刊本が何であるかは、本台帳では確認できていません※4

★そして、この史料には3つ目があります。素材の側です。

国史大辞典は、『晋書』が「一般に十八家晋書と総称される先行史籍を総括し、特に南斉の臧栄緒の紀伝体『晋書』を藍本として編纂されたと伝える」と書いています有力説※1

つまり唐の編者が見ていたのは、出来事そのものではなく、先行する晋書群です。 そして、その先行する晋書群は、いま残っていません。

**「『晋書』にこう書いてある」と言うとき、その字列は、 失われた先行史籍 → 7世紀の編纂 → 後世の刊本、という3段を通っています。**

後世の手#

1. 7世紀の唐が、四夷を並べ直している。

倭の記事は四夷伝に置かれています。 中華王朝の外交秩序のなかで各国がどう位置づけられたかを記す文脈であり、 その枠組みそのものが記録者の側のものです有力説。 S-J002(『宋書』夷蛮伝)と同じ構造です。

2. 太宗自身が筆を入れたとされる部分がある。

改訂新版 世界大百科事典は、宣帝紀・武帝紀などについて「太宗がみずから執筆した」と書いています有力説※5皇帝が自分で書いた部分がある正史である——これは、記述の性格を考えるうえで無視できません。 ただしそれが具体的にどの範囲かは、本台帳では確認していません※5

3. ★同じ本のなかに、載る国と載らない国がある。

ここが、この史料でいちばん効く点です。論争中

濱田耕策は、『晋書』について「今は逸書の各種の『晋書』を素に編修されたから、その東夷伝は簡略に過ぎるとは言え、通交の傾向は伝えていよう」と書いています【定説:記述の事実として】。 ここから「簡略だから倭の記事が落ちた」という説明が立てられます一説

★しかし、同じ濱田が挙げる記事に、百済が3度現れます。

何の記事として挙げられているか
372年(咸安2年)「咸安二年(372)春正月辛丑。百済林邑王、各遣使貢方物」(『晋書』巻9 簡文帝紀として引かれる)※2
384年百済の遣使【定説:濱田が挙げる記事として】※2
386年百済の遣使【定説:濱田が挙げる記事として】※2

★倭が現れないとされる期間のまっただ中で、同じ本に百済が載っています。

したがって「簡略だから落ちた」は、なぜ倭だけが落ちたのかを説明していません一説★本台帳は、どちらが正しいかを判定しません(資料室規程 第4条)。 判定が割れている場所を示すのが、この欄の仕事です。

4. 「載っていない」を「無かった」と読まない。

正史に記事が無いことは、その正史が記事を持たないことです。 出来事が無かったこととは別です。 実際、同じ4世紀について、 『三国史記』(S-J013)と広開土王碑(S-J012)には倭の記事があります。

どこで読めるか#

  • 中華書局の校訂本をはじめ、学術的な校訂本が刊行されており、四夷伝の箇所はそれらで読めます※4
  • 国立国会図書館サーチ(https://ndlsearch.ndl.go.jp/)で、

『晋書』(二十四史)ほかの書誌を引くことができます【定説:書誌の存在として】※6

  • 漢籍の全文データベースが公開されており、該当箇所を検索できます※6
  • 日本語の訳注つきで倭関係記事を収めた書物があります。

本台帳はそれらを転載しません。 訳文と注釈には、それを作った人の権利があります (訳注書そのものについては S-J010 を参照してください)

★「晋書にこう書いてある」として、巻数だけを添えた短い引用に注意してください。 インターネット上には機関以外が作ったテキスト集積サイトが多数あり、 巻数と字句がそこから孫引きされて流通しています。 本台帳の巻数も、その水準までしか確認できていません※2

典拠にするときの注意#

★この台帳自体は、記事や論文の典拠にできません。 実際に参照した校訂本と研究を直接あげてください。

  1. 「魏志倭人伝の最後は266年」と書かない。 泰始は西晋の年号であり、266年の記事は『晋書』の側にある
  2. 巻数を書くなら、校訂本で確かめてから書く。 本台帳が挙げた巻3・巻9・巻10・巻97は、いずれも確認が済んでいない※2
  3. 成立年は「勅命の年」か「完成の年」かを添える。 646年と648年は、同じ経過の別の端である可能性が高い※1
  4. 413年を「朝貢の再開」と書くなら、正式使者と認めない見解があることを必ず添える。 採る年が変われば、相手の王朝も東晋から宋に変わる
  5. 「倭が載っていない」を「倭に何も無かった」と読まない。 同じ本に百済は載っている。なぜ倭だけが落ちたのかは、決着していない
  6. 7世紀の編纂物である。 同時代性を根拠にできる史料ではない

この台帳の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1情報が食い違っている成立年が事典ごとに割れている(646/648/644/「646年撰修開始・648年成書」)。「十八家晋書」「臧栄緒の『晋書』を藍本」も同じ項目紹介から引いており、原典に当たっていない「『晋書』は何年の本か」を、割れの理由まで含めて一文で書けるようになる。 644年が揃わない理由も決まる
※2二次情報から引いている巻3 武帝紀・巻9 簡文帝紀・巻10 安帝本紀・巻97 四夷伝 東夷 倭人条の所在と字句を、校訂本で確認していない。機関以外のテキスト集積サイトと、報告書の孫引きを経ている記事で巻数を書けるようになる。 この台帳でいちばん効く未確認事項である
※3情報が食い違っている413年の倭国使を倭の正式な使者と認めるかについて、石井の記述以外の学説状況に当たっていない「空白が明けるのは413年か421年か」を、誰がどちらを採るかまで書けるようになる
※4この記事では手が回っていない『晋書』の現存最古の刊本と、版本による本文の異同を確認していない「いま読んでいる本文がどこまで確からしいか」を具体的に書けるようになる
※5二次情報から引いている「太宗がみずから執筆した」の範囲を、事典の記述以上に確認していない皇帝の筆が入った範囲が分かり、記述の性格を評価できるようになる
※6情報が食い違っている国立国会図書館サーチと漢籍全文データベースの公開範囲・利用条件を個別に確認していない読者への案内が正確になる
この記事では手が回っていない『晋書』が倭以外の東夷(高句麗・百済・新羅・韓)をどう数えているかの全体像「なぜ倭だけが落ちたのか」に直結するが、本台帳の範囲を超える