資料室 / 日記(同時代の記録)
『兵範記』(平信範の日記)
天承2年(1132年)〜元暦元年(1184年)の記事(京都大学の解説による) / 2026-09-16
★ここに史料そのものは置いていません。これは「この史料をどこまで信じてよいか」の台帳です。原文の翻刻も単独の現代語訳も載せず、どこで読めるかを案内します。この媒体が実際に読んだ範囲に限り、判読と下訳を「読んだ本文(対照)」の節に置くことがあります(AI の判読・専門家の校閲未了)。この台帳自体を、記事や論文の典拠にはしません。
どんな史料か#
12世紀の貴族、平信範(たいらののぶのり)が書いた日記です。 東京国立博物館は、所蔵する断簡の解説でこう書いています(逐語)。
「『兵範記』は平信範<たいらののぶのり>(1112~87)の日記で、本作は仁安2年(1167)7月7日・8日部分を藤原定家が写したもの。公卿は先人の日記を参照して朝廷の行事を滞りなく進めていた。」
自筆本を所蔵する京都大学は、こう説明しています(逐語)。
「本書は『人車記』、『信範卿記』、『平信記』などとも呼ばれる平信範の日記である。「人車」とは「信範」の二字からの偏と部分を抽出して組合せ、「兵範」とは「兵部卿信範」の首尾二字を組合せての命名である。記事は天承二(一一三二)年から元暦元(一一八四)年まで、信範二十一歳から七十三歳に至るまでの記録である」
| 項目 | 記載 |
|---|---|
| 書き手 | 平信範(1112〜87)【定説:機関の記述として】 |
| 記事の範囲 | 天承2年(1132年)〜元暦元年(1184年)【定説:機関の記述として】 |
| 別名 | 人車記・信範卿記・平信記(京都大学)/人車記・平記・平兵部記・平信記(宮内庁書陵部の目録の「一名」)【定説:機関の記述として】 |
| 名の由来 | 「兵範」は「兵部卿信範」の首尾二字、「人車」は「信範」の偏と部分の組み合わせ【定説:機関の記述として】 |
★この史料について、最初に押さえていただきたいことが2つあります。
1. 保元の乱を、同時代の人が1日ずつ書いた日記です#
京都大学は「記事内容は詳細を極め、紙背文書とともに平安時代史研究の貴重な資料となっており、なかでも保元の乱に関わる記事は特に注目されるものである」と書きます【定説:機関の記述として】。
東京大学史料編纂所が保元元年(1156年)7月の出来事を1日ずつ短い文にした綱文(23条)には、その出来事を書いた本が重複を含めて161件付いており、その筆頭が本書です。2日から30日まで、ほぼ全部の条に付いています【定説:機関のデータベースの記載として】。『保元物語』は[参考]として別枠に置かれています。 保元の乱を書く材料は、物語ではなく、この日記でした。
★7月11日の記事は、結末を知らない形で書かれています。 左大臣が矢に当たって傷を負ったが「其命存否、今日不分明云々」(生きているか死んだかは今日はわからない、という)と書きます【定説:活字本を機械で読んだ範囲として】※1。日記という形式は、その日の情報の状態を書きます。11日条の「今日不分明」は、その形式のとおりに残っています。★ただし、残っているのは晩年の自筆清書本です(次の節・「後世の手」1)。清書のとき本人が改めなかったかどうかは、判定できません。「その日のまま」と言えるのは日記の形式についてであって、この清書本の本文の保証ではありません。(★2026-09-16 訂正:初版は「書いた人は結末を知らずに書いています」「それが、この史料のいちばんの強み」と書いていましたが、同じ台帳の「後世の手」1 と衝突していました。)
2. 「原本」ではなく「自筆清書本」です——次の節へ#
原本はあるか#
★日々書き継がれた原本は、ありません。あるのは、信範本人が晩年に清書した自筆本と、その転写本です。 京都大学は、こう書いています(逐語)。
「残されているのは日々書き継がれた原本ではなく、信範晩年になっての自筆清書本を含めた転写本である。陽明文庫に蔵される『人車記』と合わせ自筆清書本を含む古写本部分だけでも五十四軸に及び、その量からも信範の「記録を残す」作業が一大事業であったことをうかがわせるものである。」
文化庁の国指定文化財等データベースは、京都大学の本をこう記載しています【定説:機関の記載として】。
| 項目 | 記載 |
|---|---|
| 名称 | 兵範記〈自筆本十九巻/古写本六巻〉 |
| 員数 | 25巻(附指定:新写本 二十四巻) |
| 種別・時代 | 古文書・平安 |
| 指定 | 重要文化財・1956年(昭和31年)6月28日・指定番号 00225 |
| 所有者・保管 | 国立大学法人京都大学(京都府京都市左京区吉田本町) |
| 解説文 | 「平安時代の作品。」(★これで全文です) |
京都大学のデジタルアーカイブは、自筆本19軸+古写本6軸を「兵範記 25巻」(RB00006580・注記「保延7-嘉応元年」)、新写本24軸を「兵範記 24巻」(RB00006581・注記「長承元-承安元年」)として登録し、いずれも平松文庫の所蔵、「巻子、改装・唐茶色後補表紙」「紙背文書多数」と記します【定説:機関の記載として】。★自筆清書本の19軸が、記事のどの年月を覆うかは、公開面に無く、本台帳では確かめられていません※3。
国立歴史民俗博物館は「兵範記データベース」の概要で、原本の所在をこう書いています(逐語・https://www.rekihaku.ac.jp/doc/gaiyou/heihanki.html ・取得 2026-09-16)【定説:機関の記述として】。
「平信範(1112~87)の日記。人車記ともよばれる。現存分の大半をしめる原本(自筆本・古写本)が陽明文庫と京都大学に分蔵される。」
★同じ概要は、刊本を原本の写真版で校合したと書き、「◎刊本における錯簡を写真版において確認し並べ直したもの。○保元二年正月廿八日条~二月廿五日条」と注記します。保元元年7月に錯簡・欠の注記はありません(無いことの確認であって、無いことの証明ではありません)。
★書かれた時と、いま読めるものの間#
| 書かれた時 | いま読めるもの | 隔たり | |
|---|---|---|---|
| 『兵範記』(本台帳) | 1132〜1184年(日々の記録) | 本人の自筆清書本(晩年)+転写本※3 | ★同じ人の生涯の中。ただし清書と日々の記録の間で何が変わったかは分からない。★記事が引いた保元元年7月条が自筆清書本19軸と古写本6軸のどちらに含まれるかは未確認※3 |
| 『玉葉』(S-J021) | 1164〜1200年 | 九条本(九・1053)は「写, 鎌倉前期」、九条本『玉海』(九・5249)・藤波本は「写・江戸期」「写・江戸中期」(宮内庁書陵部の目録による) | 九条本(九・1053)は「鎌倉前期」の写し(目録の語。年は目録に無い)。★2026-09-16 訂正:初版は「江戸期の写本」「400年以上」と書いていたが、書陵部目録の別の書目(九・1053)に届いていなかっただけで、誤り(S-J021 ※3) |
| 『続日本紀』(S-J016) | 797年成立 | 13世紀後半の写本 | およそ450〜500年 |
自筆本が残っている日記は、写本しかない史書と、確かさの種類が違います。 ただし「自筆」は「日々そのまま」ではありません。清書のとき本人が何を直したかは、判定できません(「後世の手」1)。
断簡と、他の写本#
- 断簡:京都大学は「本書と僚巻をなす断簡が京都大学文学部博物館の平松文書中に一一一葉と当館に一葉(仁安三(一一六八)年三月二十三~二十六日)がある」と書きます【定説:機関の記述として】。東京国立博物館には、藤原定家が仁安2年(1167年)7月7日・8日の部分を写した断簡があります【定説:機関の記述として】(★初版の「(鎌倉時代・13世紀)」は東博の逐語に無い語で、出典が確かめられないので 2026-09-16 に外した)
- 宮内庁書陵部の写本(同部の目録による)【定説:機関の目録の記載として】:藤波本『兵範記』(久安5年〜嘉応元年・写・江戸初期・29点)/久世本『兵範記』(保延7年2月〜嘉応元年10月・有欠・写・文化3年〜文政6年・久世通理・29点)/柳原本『人車記』(明和4年8月・柳原紀光写・10点)
- 陽明文庫の『人車記』:京都大学の解説が言及しますが、陽明文庫の側の記述には、本台帳は到達していません※2
目録の上で無い年がある——目録で分かること#
『史料大成』第37巻の「人車記要目」(現存する記事を巻ごとに年月で並べた目録)では、保元3年12月の次が「卷第廿八 仁安元年九月」で、『史料大成』の目録の上では、平治元年(1159年)の記事はありません【定説:活字本の目録を読んだ範囲として】※1(★現存する全体の目録とは突き合わせていません——未確認事項の最終行。2026-09-16 第2回:初版の「現存する『兵範記』にありません」は目録の記載を超える断定だったので改めました)。書かれなかったのか、伝わらなかったのかは、目録は答えません。平治の乱を書くとき、この日記は使えません(この目録の上では)。
後世の手#
★本台帳は、真偽や解釈の当否を判定しません(資料室規程 第4条)。判定が割れる場所、または判定できない場所を示します。
- 本人の清書——残っているのは「信範晩年になっての自筆清書本」です【定説:機関の記述として】。日々の記録から清書する間に、本人が何を足し、何を削ったかは、日々の原本が無いので確かめようがありません。★「自筆だから、その日のままの記録」とは言えません。
- 転写——古写本6軸・新写本24軸・江戸期の諸写本(藤波本・久世本・柳原本)は、いずれも写しです。写し間違い・注記の混入は、写本で伝わる文献に共通する前提です定説。本書について具体的にどこで起きたかは、本台帳では確認していません。
- 紙背——文化庁のデータベースは、巻十九(古写本)の写真に「紙背文書(平清盛直筆書状)」と題を付けています【定説:機関の記載として】。裏に別の文書がある紙を、清書に使っています。 紙背が何かは本台帳の範囲外ですが、「日記の本文」と「紙の裏の文書」を混ぜないでください。
- 後の人の写し(定家)——東京国立博物館は、定家の断簡について「定家自身も日記『明月記』をつけながら、『兵範記』を参考するために模写したのだろう」と書きます。★「だろう」は機関の推測です。13世紀の人が参照のために写した部分が、本文の伝来の1つの経路になっています。
- 活字本——1918年の『史料通覧』が何を底本にしたか、本台帳は凡例に当たっていません※1。
どこで読めるか#
この台帳は、記事が引いた範囲の判読と下訳を「読んだ本文(対照)」の節に置くほかは、原文も現代語訳も置きません。読める場所を指し示します(資料室規程 第1条・第1条の2)。
- 京都大学貴重資料デジタルアーカイブ(平松文庫)——https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006580 (自筆本・古写本 25巻)/ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00006581 (新写本 24巻)/ https://rmda.kulib.kyoto-u.ac.jp/item/rb00013530 (兵範記包紙文書 2巻)。いずれも IIIF マニフェストと Mirador のリンクがあります【定説:ページの記載として】。★注記に「閲覧停止」とあり、それが原本の閲覧を指すのか画像を指すのかは確かめていません※4
- 国立国会図書館デジタルコレクション(ログインなしで読める活字本・いずれも Access Restrictions「PDM」)——『史料通覧 兵範記二』日本史籍保存会・大正7年(1918)・pid 1918082(https://dl.ndl.go.jp/pid/1918082 )/『史料大成』37(人車記要目を含む)内外書籍・昭和14年(1939)・pid 3431565【定説:同館の IIIF マニフェストの記載として】
- 宮内庁書陵部 図書寮文庫(書陵部所蔵資料目録・画像公開システム)——藤波本(函架番号 217・451)/久世本(259・218)/柳原本『人車記』(柳・398・閲覧用マイクロポジフィルム閲P3156・3157)【定説:目録の記載として】
- 東京国立博物館——「兵範記断簡 仁安二年七月七日」(藤原定家筆・1幅)。文化遺産オンライン https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/434647
- 文化庁 国指定文化財等データベース——https://kunishitei.bunka.go.jp/bsys/maindetails/201/9179
- 京都大学の解説が参照として挙げる上横手雅敬「「人車記」解説」(『陽明叢書 記録文書篇』第五輯・思文閣出版・昭和62年)には、本台帳は到達していません※2
読んだ本文(対照)#
ここに置く原文と訳は、AI が刊本の画像から起こした判読と下訳で、専門家の校閲を経ていません。引くときは底本に当たってください。
底本:『史料通覧 兵範記二』日本史籍保存会・大正7年(1918)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 1918082(https://dl.ndl.go.jp/pid/1918082 )。公開条件は同館の IIIF マニフェストの Access Restrictions「PDM」(2026-09-10 確認・資料室規程 第1条の3)。保元元年7月11日条の条頭「十一日庚戌 鷄鳴…」はコマ064 左頁(頁一一七)、「今日不分明」はコマ065 右頁(頁一一八)。間の行(「辰剋」〜「燒失畢」「上皇左府不知行方」)はその2コマの中にあり、行までは特定していない。★この活字本が何を底本にしたかは凡例に当たっていない(※1)。
原文(保元元年7月11日条。記事 T-009 が引いた範囲と、その前後の文脈。「(略)」は本媒体が読んだが置かない部分・資料室規程 第1条の2 第4項。返り点は省いた。句読点「、」が底本のものか判読の際に付されたものかは、控えでは区別されていない)
十一日庚戌 鷄鳴清盛朝臣、義朝、義康等、軍兵都六百餘騎發向白河、
(略)辰剋、東方起煙炎、御方軍已責寄懸火了云々、清盛等乘勝逐逃、上皇左府晦跡逐電、白川御所等燒失畢、
(略)上皇左府不知行方、
(略)左府雖中矢被疵、其命存否、今日不分明云々、
読み下し/現代語訳(AI 下訳・原文の行に対応)
十一日、庚戌。鶏鳴に清盛朝臣・義朝・義康ら、軍兵あわせて六百余騎、白河へ発向す。
(略)辰の剋、東方に煙炎起こる。御方の軍已に責め寄せて火を懸け了んぬと云々。清盛等勝ちに乗じて逐ひ、上皇・左府は跡を晦まして逐電し、白川御所等焼失し畢んぬ。
(略)上皇・左府、行方を知らず。
(略)左府は矢に中たりて疵を被ると雖も、其の命の存否は今日分明ならずと云々。
訳:鶏が鳴くころ、清盛・義朝・義康らの軍勢あわせて六百余騎が白河へ向かった。辰の刻、東の方角に煙と炎が上がった。味方の軍がすでに攻め寄せて火をかけた、という。清盛らは勝ちに乗じて追い、上皇と左大臣は姿をくらまして逃げ、白河の御所などは焼け落ちた。上皇と左大臣の行方はわからない。左大臣は矢に当たって傷を負ったが、生きているか死んだかは、今日の時点ではわからない、という。
★2行目について。 記事 T-009 の初版が「朝のうちに決しています」と書いた根拠になる句は、「御方軍已責寄懸火了云々」(火をかけたことは伝聞——云々)と「上皇左府晦跡逐電、白川御所等燒失畢」(上皇・左府が姿を消し、御所が焼けたことは断定)です。初版の対照はこの2句を「(略)」に落としていたので、2026-09-16 に加えました。「決した」は日記の語ではなく、通史台帳 L-J009 第10-2節の読み推測です。
判読の記録:2026-09-10。第1読み(同系統の機械)で保元元年7月1〜11日の全文、第2読み(別系統の機械)で要所。★第2読みの範囲は、行単位では確定できません(2026-09-16・席が控えで確かめた。到達記録 2026-09-16 ウタガウ 項目7)。第2読みの本文は控えに残っておらず、控えの冒頭は「要所は第2読み(別系統モデル)と照合し」としか書いていません。通史台帳 L-J009 第10-2節が〔 〕を付した箇所(2日・5日・「不知行方」の段)は第2読みが読んだと分かります。上の4行のうち、「上皇左府不知行方」「今日不分明」の段は2読みで一致。「辰剋…燒失畢」の行は、第2読みが読んだかどうかを確かめられないので、第1読みのみとして扱います(★2026-09-16 訂正:初版は「上の4行は2読みで一致」と書いていました)。11日条の後半(官符)は第1読みのみで、記事に引いていないので置きません。読めなかった字(□)・2読みで割れた字(〔甲/乙〕):2読みの範囲には無い。第1読みのみの行については、割れの有無を言えない。人の校閲:無し。読んだ全文と返り点つきの写しは、編集部内の控え(records/・公開面に出ない)にあります。第2読みの生出力は控えに無く、B に写しを求めています。
確度:機械判読・校閲未了。人の校閲を経た範囲:無し。
典拠にするときの注意#
★この台帳自体は、記事や論文の典拠にできません。「読んだ本文(対照)」の節も同じです。 典拠は底本の頁(コマ)を直接あげてください(資料室規程 第5条)。
- 「同時代の日記」と書けるのは、その年が信範の在世中(1132〜84年の記事)で、かつ現存する巻に含まれる範囲だけです。 目録で確かめてください。平治元年は、『史料大成』の目録の上では現存しません(現存全体の目録とは突き合わせていません)
- 「原本」と書かないでください。「自筆清書本」です(京都大学の語)。日々の記録そのものは残っていません
- この媒体が活字本から機械で読んだ逐語は、人の校閲を経ていません(「読んだ本文(対照)」・通史⑨ ※1)。引くときは、活字本の頁(コマ)を添え、「活字本を読んだ」と書いてください※1
- 綱文は史料編纂所の編纂物で、この日記の本文ではありません。 綱文の1文を「『兵範記』にこう書いてある」と書かないでください
- 11日の記事の「今日不分明」は、その日の京での情報の状態を、日記の形式のとおりに書いたものです。 ただし残っているのは晩年の清書本で、清書のとき本人が改めなかったかは判定できません(「後世の手」1)。「結末を知らずに書いた」とは、形式について言えるだけです
- 紙背文書と本文を混ぜないでください(「後世の手」3)
この台帳の未確認事項#
| 番号 | どういう種類か | 内容 | 確認できたら何が変わるか |
|---|---|---|---|
| ※1 | この記事では手が回っていない | 『史料通覧 兵範記』(1918)と『史料大成』の要目が何を底本にしたか(凡例に当たっていない)。保元元年7月の本文は活字本の機械判読・校閲未了——人の目による校閲を経ていない(第2読みの範囲は判読の記録のとおり)。★型について:活字本を機械で読んだものは「二次情報」ではないので、2026-09-16 に型を改めた。3種のどれにも正確には当たらず、第4の型(「活字本・刊本を機械で読んだまま。人の校閲を経ていない」)を発行人に上申中(ミサダメ裁定 2026-09-16・裁定4) | 活字本と自筆本の関係を書けるようになる。逐語の確かさが上がる |
| ※2 | この記事では手が回っていない | 陽明文庫本『人車記』の機関の記述(巻数・年代・指定の有無)と、上横手雅敬の解説。京都大学が「五十四軸」と合算する内訳。★2026-09-16:国立歴史民俗博物館の概要で「原本(自筆本・古写本)が陽明文庫と京都大学に分蔵される」までは届いた(「原本はあるか」)。陽明文庫の側の記述は未着手 | 自筆清書本の全体像を、2つの所蔵機関の記述で書けるようになる |
| ※3 | この記事では手が回っていない | 自筆清書本19軸がどの年月を覆うか。京都大学の注記「保延7-嘉応元年」は25巻全体に付いており、自筆本と古写本の内訳が書かれていない。★2026-09-16:京都大学の item ページ・IIIF マニフェスト(書誌のみで画像は無い)・各巻ページ・文化庁DB(写真題「巻一(自筆本)」「巻十九(古写本)」のみ)・歴博DB概要に当たったが、巻ごとの年紀は公開面に無い——到達不可(第17条①)。次の経路は紙:京都大学史料叢書『兵範記』一〜三(思文閣出版)の解題、陽明叢書『人車記』四の上横手雅敬解説、KULINE の書誌(未着手) | 保元元年7月の記事が「自筆」で残っているのか「古写本」で残っているのかを書けるようになる |
| ※4 | この記事では手が回っていない | 京都大学の注記「閲覧停止」の意味。画像の公開状況。★2026-09-16:IIIF マニフェストは書誌のみで画像(canvases)が無かった。「閲覧停止」が原本か画像かを説明した文には届いていない | 読者に「画像で読めます」と案内できるかどうかが決まる |
| — | この記事では手が回っていない | 『兵範記』の現存する記事の全体の目録を、京都大学・陽明文庫・書陵部の側で突き合わせること。本台帳は『史料大成』の要目で平治元年の欠を見たのみ | どの年月が現存し、どの年月が失われたかを一覧にできる |
改訂履歴#
- 2026-09-16 席(ウタガウ)が見直し・訂正(第2回:「目録の上で無い年」「平治元年は…目録の上では現存しません」/第3回:「記事 T-009 の初版が」)。初版(2026-09-11)は実行層の代筆。訂正した箇所:「どんな史料か」1(「いちばんの強み」を落とし、清書本との両立)/「原本はあるか」(歴博の逐語を追加・※3 の到達不可)/比較表(※3・『玉葉』の行の「江戸期」「400年以上」は誤り)/断簡の「(鎌倉時代・13世紀)」/「読んだ本文(対照)」(「決した」の根拠句を対照に戻す・返り点と句読点・第2読みの範囲)/※1〜※4。箇所の一覧は
records/台帳改訂 2026-09-16 ウタガウ(箇所一覧).md