資料室 / 日記(同時代の記録)

『玉葉』(九条兼実の日記・一名『玉海』)

長寛2年(1164年)〜正治2年(1200年)の記事(宮内庁書陵部の目録による) / 2026-09-16

★ここに史料そのものは置いていません。これは「この史料をどこまで信じてよいか」の台帳です。原文の翻刻も単独の現代語訳も載せず、どこで読めるかを案内します。この媒体が実際に読んだ範囲に限り、判読と下訳を「読んだ本文(対照)」の節に置くことがあります(AI の判読・専門家の校閲未了)。この台帳自体を、記事や論文の典拠にはしません。

どんな史料か#

12世紀後半の貴族、九条兼実(くじょうかねざね)の日記です。 宮内庁書陵部の目録は、編著者を「九条兼実」、書名を「玉海」、註記に「一名:玉葉」と記します【定説:機関の目録の記載として】。国立国会図書館の書誌は、活字本『玉葉:一名・玉海』の Creator を「藤原兼実 著」とします【定説:同館の記載として】。『玉葉』と『玉海』は同じ本の2つの名です。

項目記載
書き手九条兼実(藤原兼実)【定説:機関の記載として】
記事の範囲長寛2年(1164年)閏10月〜正治2年(1200年)(九条本『玉海』九・5249 の目録の最初と最後)【定説:機関の目録の記載として】。★同じ書陵部の目録で、九条本『玉葉』(九・1053・鎌倉前期写)の書名は「玉葉(嘉応元年―建久5年)」と範囲が違う(2026-09-16)。本の違いによるか目録の書き方かは判定しない
別名玉海【定説:機関の目録の記載として】

★この史料について、最初に押さえていただきたいことが2つあります。

1. 都にいた人が、遠くの戦いを「聞いた」日記です#

東京大学史料編纂所の綱文で、治承4年(1180年)8月17日の源頼朝の挙兵の条に付いた本は13件、筆頭は『山槐記』と本書です。文治元年(1185年)3月24日の壇ノ浦の条に付いた本は48件、筆頭は本書と『吾妻鏡』です【定説:機関のデータベースの記載として】。

★ただし、本文は「傳聞」「早旦人告云」「光雅仰云、院宣云」と、聞いた形で書かれています。 兼実は戦場にいない——これは本文の書かれ方からの本台帳の読みで、機関の記述ではありません推測(★2026-09-16:初版は「兼実は京にいました」と無印で断定していました)。壇ノ浦を自分の目で見た人の日記は、48件の中にありません。本書の3月27日の記事は「傳聞、平氏於長門國被伐了、九郎之功云々、實否未聞」——平氏が長門で討たれたと伝え聞く、本当かどうかはまだ聞いていない、と書き、4月4日の記事は、院宣として光雅が伝えた義経の飛脚の申状を書き留めたうえで「但舊主御事不分明云々」——ただし舊主〔前の天皇。安徳天皇と読むのは本媒体の同定〕のことは、はっきりしない、という——と書きます【定説:活字本を機械で読んだ範囲として】※1。壇ノ浦から10日後の京で、「舊主」の消息は「分明ならず」でした(★2026-09-16 訂正:初版の「11日後」は暦の上で誤り。国立天文台の暦日データベースで元暦2年3月は大の月、3月24日→4月4日は10日後。「安徳天皇の消息」は本文の語「舊主」に改めた)。この日記から書けるのは「京にいつ何が伝わったか」であって、「壇ノ浦で何が起きたか」ではありません。

2. 無い月があります#

建久3年(1192年)7月——源頼朝が征夷大将軍に任じられた月——の記事は、本書にありません。活字本(国書刊行会本)では6月6日の次が8月7日で、7月は1日分も無いのです【定説:活字本を読んだ範囲として】※1。宮内庁書陵部の九条本『玉海』(九・5249・江戸期写)の目録は、建久3年の巻(巻之46)の内容を「建久3年正月―2月」とし、次の巻(巻之47)は「建久4年正月―5月」です【定説:機関の目録の記載として】。★活字本の6月・8月の記事と、この目録の「正月―2月」は食い違っています※2。底本が違うのか、目録の書き方の粗さかは、本台帳では判定しません。★2026-09-16:同じ書陵部の九条本『玉葉』(九・1053・鎌倉前期写・50冊)の目録では、第48冊が「建久3年四季」で、欠の注記はありません【定説:機関の目録の記載として】。この本に7月の記事があるかは、目録からは分かりません(欠の注記が無い、とだけ)。

原本はあるか#

★兼実の自筆本があるかどうかを書いた機関の記述に、本台帳は到達していません※3。到達したのは、宮内庁書陵部の目録の記載までです。★江戸期より古い写本はあります。 目録は九条本『玉葉』(九・1053・50冊)を「写, 鎌倉前期」と記します(★2026-09-16 訂正:初版は「到達したのは…江戸期の写本までです」と書いていましたが、目録の別の書目(九・1053)に届いていなかっただけで、現存する写本の上限のように読める書き方は誤りでした)。

宮内庁書陵部 図書寮文庫の目録(書陵部所蔵資料目録・画像公開システム・データ更新 2026年9月9日。九・1053 は 2026-09-16 取得)【定説:機関の目録の記載として】:

本函架番号書名(目録の表記)刊写情報点数
九条本(九条家本)『玉葉』九・1053玉葉(嘉応元年―建久5年)写, 鎌倉前期50
九条本(九条家本)『玉海』九・5249玉海(巻1―50・目録)写・江戸期51
藤波本217・404玉葉(長寛2年―正治2年・目録別記残編共)写・江戸中期41

九条本『玉葉』(九・1053)の目録の逐語(https://shoryobu.kunaicho.go.jp/Toshoryo/Detail/1000706440000 ・取得 2026-09-16):

「函架番号 九 ・ 1053」「分類番号 415 歴史及伝記 > 歴史 > 日本史 > 記録」「書名 玉葉 (嘉応元年―建久5年)」「編著者 九条兼実」「刊写情報 写, 鎌倉前期」「家別 九条本」「点数 50」「翻刻・紹介情報 翻刻:宮内庁書陵部編『図書寮叢刊 玉葉』1~14(平成6~25年)。/掲載:宮内庁書陵部・宮内庁三の丸尚蔵館『皇室の文庫 書陵部の名品(三の丸尚蔵館特別展図録)』(平成22年)、宮内庁書陵部・宮内庁三の丸尚蔵館編『鎌倉期の宸筆と名筆―皇室の文庫から(三の丸尚蔵館展覧会図録No.60)』(平成24年)。」 細目:「30 玉葉 (第30冊) (略) 写, 鎌倉前期 (略) 元暦2年(文治元年)春夏」「48 (略)建久3年四季」

★読み取れること。 ①『図書寮叢刊 玉葉』の翻刻の底本は、この本です(目録の「翻刻」欄)。②記事 T-009 が引いた元暦2年3月27日・4月4日条は、第30冊「元暦2年(文治元年)春夏」の範囲に入ります。③目録は「写」であって、兼実の自筆本かどうかは書いていません。「鎌倉前期」の根拠(奥書か紙質か)も目録には無く、『図書寮叢刊』1 の解題(紙)に届いていません※3。④この本と国書刊行会本(1906-07)の本文が同じかどうかは分かりません※4。

九条本『玉海』(九・5249)の目録は、51点それぞれの内容を年月で書いています。 そこから分かる欠は、次のとおりです【定説:機関の目録の記載として】。

巻内容(目録の表記)見えること
巻之15安元2年4月―9月(9月27日後欠)9月27日より後が欠ける
巻之23〜25治承4年正月―3月/4月―6月/7月―12月(10月・11月欠)★治承4年(1180年)の挙兵の年は、10・11月を除いて残っている
巻之26治承5年4月―養和元年12月(正月―3月欠)
巻之31元暦2年正月―9月★壇ノ浦(1185年3月)の月は、この巻
巻之42文治6年正月―12月(2月・3月・6月欠)
巻之46 → 47建久3年正月―2月 → 建久4年正月―5月★建久3年3月〜12月の巻が無い(「どんな史料か」2)

★書かれた時と、いま読めるものの間#

書かれた時いま読めるもの隔たり
『玉葉』(本台帳)1164〜1200年鎌倉前期の写本(九条本『玉葉』九・1053・目録「写, 鎌倉前期」)、江戸期の写本(九条本『玉海』九・5249・藤波本)九条本(九・1053)は「鎌倉前期」の写し(目録の語。年は目録に無い)※3。★2026-09-16 訂正:初版は「江戸期の写本(九条家本・藤波本)」「400年以上」と書いていましたが、誤りでした(「原本はあるか」)
『兵範記』(S-J020)1132〜1184年本人の自筆清書本+転写本同じ人の生涯の中(記事が引いた7月条が自筆本に含まれるかは未確認・S-J020 ※3)

同じ12世紀の貴族の日記でも、片方は本人の自筆清書本が残り、片方は鎌倉前期の写本(目録の語)までです。 「同時代の日記」という言葉は同じでも、いま読めるものまでの距離が違います。

★文化遺産オンラインで「玉葉」「玉海」「九条兼実」を検索したところ、本書の写本で国が指定したものは見つかりませんでした(2026-09-11・検索の結果として。「無い」の確認ではありません)。

後世の手#

★本台帳は、真偽や解釈の当否を判定しません(資料室規程 第4条)。判定が割れる場所、または判定できない場所を示します。

  1. 写本で伝わる文献に共通する前提——写し間違い、注記の本文への混入、訓の付加定説。本書について具体的にどこで起きたかは、本台帳では確認していません。
  2. 活字本と写本の目録の食い違い——建久3年の記事について、国書刊行会本(1906-07)は6月6日・8月7日の記事を持ち、九条本『玉海』(九・5249)の目録は「正月―2月」としか書きません。九条本『玉葉』(九・1053)の目録は「建久3年四季」です※2。国書刊行会本が何を底本にしたかは、本台帳は凡例に当たっていません※4。
  3. 「伝聞」の層——本書の記事には「傳聞」「云々」で結ばれる伝聞が多くあります(3月27日条・4月4日条)。兼実が見たことと、聞いたことは、本文の中で語尾が分けています。 引くとき、その語尾を落とさないでください。
  4. 後の世の本との関係——壇ノ浦の綱文に付いた48件のうち、本書と並ぶ筆頭は『吾妻鏡』(国立公文書館によれば成立は1300年前後)です。★綱文の「安徳天皇崩じ給ひ」という文が48件のどの本によるかは、書目からは分かりません。本台帳が読んだ範囲の『玉葉』(3月27日条・4月4日条)に「崩じ」は無く、4月4日条は「但舊主御事不分明云々」です。『玉葉』のその後の記事は読んでいません。(★2026-09-16 訂正:初版は「京で聞いた人と、120年後の幕府が書いたものによっています」と書いていましたが、読んだ本文と食い違う断定でした。通史台帳 L-J009 第7-6節も同じ文言に揃えました。)

どこで読めるか#

この台帳は、記事が引いた範囲の判読と下訳を「読んだ本文(対照)」の節に置くほかは、原文も現代語訳も置きません。読める場所を指し示します(資料室規程 第1条・第1条の2)。

  • 宮内庁書陵部 図書寮文庫(書陵部所蔵資料目録・画像公開システム https://shoryobu.kunaicho.go.jp/ )——九条本『玉葉』(函架番号 九・1053・50冊・写, 鎌倉前期・目録の備考「画像は旧表紙、奥書等。」・閲覧用紙焼写真帳 213)/九条本『玉海』(九・5249・51点・写・江戸期)/藤波本『玉葉』(217・404・41点)。目録に「出版物及び映像への利用(写真掲載・翻刻など)については、図書寮文庫出納係への申請が必要です」とあります【定説:目録の記載として】
  • 『図書寮叢刊 〔九条家本〕玉葉』1〜14(宮内庁書陵部・平成6年3月〜平成25年3月)——同部の発行物一覧に記載があり、九・1053 の目録の「翻刻」欄がこの刊本を挙げます(=底本は九条本『玉葉』九・1053)【定説:機関の一覧・目録の記載として】。★本台帳はこの刊本の本文・解題に到達していません(紙媒体・到達不可)※4
  • 国立国会図書館デジタルコレクション(ログインなしで読める活字本・Access Restrictions「PDM」)——『玉葉:一名・玉海』国書刊行会・明治39-40年(1906-07)。第3冊は pid 772051(https://dl.ndl.go.jp/pid/772051 ・元暦2年3〜4月の記事を含む)【定説:同館の IIIF マニフェストの記載として】
  • 文化庁の史跡の解説(福島県会津・12世紀の城跡)が本書を引いて城氏との関係の「可能性もある」と書いています——通史⑨が引いた箇所です【一説:機関の記述として】

読んだ本文(対照)#

ここに置く原文と訳は、AI が刊本の画像から起こした判読と下訳で、専門家の校閲を経ていません。引くときは底本に当たってください。

底本:『玉葉:一名・玉海』第3・国書刊行会・明治39-40年(1906-07)。国立国会図書館デジタルコレクション pid 772051(https://dl.ndl.go.jp/pid/772051 )。公開条件は同館の IIIF マニフェストの Access Restrictions「PDM」(2026-09-10 確認・資料室規程 第1条の3)。元暦2年3月27日条はコマ038 左頁(p.71 上段)、4月4日条はコマ039 右頁(p.72 下段)。★この活字本が何を底本にしたかは凡例に当たっていない(※4)。

原文(元暦2年3月27日条・4月4日条。記事 T-009 が引いた範囲と、その前後の文脈。「(略)」は本媒体が読んだが置かない部分・資料室規程 第1条の2 第4項。返り点は省いた。句読点「、」が底本のものか判読の際に付されたものかは、控えでは区別されていない)

〔3月27日条〕(略)傳聞、平氏於長門國被伐了、九郎之功云々、實否未聞
〔4月4日条〕(略)光雅仰云、院宣云、追討大將軍義經、去夜進飛脚(相副札)申云、去三月廿四日午刻、於長門國(略)
(略)但舊主御事不分明云々

読み下し/現代語訳(AI 下訳・原文の行に対応。〔 〕は判読の外の補い——人物の同定で、本媒体が付けたもの)

〔3月27日条〕傳へ聞く、平氏、長門國に於て伐たれ了んぬ、九郎の功と云々。實否、未だ聞かず。
〔4月4日条〕光雅仰せて云く、院宣に云く、追討大將軍義經、去夜飛脚を進めて(札を相副ふ)申して云く、去る三月廿四日午の刻、長門國に於て(略)
但し舊主の御事は分明ならずと云々。
訳:伝え聞くところでは、平氏は長門国で討たれた、九郎〔義経・本媒体の補い〕の手柄だという。本当かどうかは、まだ聞いていない。/光雅が(院の言葉として)言うには、院宣にいわく、追討大将軍義経が昨夜飛脚を進めて(書付を添えて)申すには、去る3月24日の午の刻、長門国で(略)。ただし、舊主〔前の天皇。安徳天皇と読むのは本媒体の同定〕のことは、はっきりしない、という。

★4月4日条の枠について。 「去三月廿四日午刻…但舊主御事不分明云々」は、「光雅仰云、院宣云、追討大將軍義經、去夜進飛脚(相副札)申云」の中にあります。つまり 義経の飛脚の申状 → 院宣 → 光雅の口 → 兼実の筆 の3段の伝聞で、「不分明」は義経の側の情報の状態です。初版の対照はこの枠の句を「(略)」に落としていたので、兼実が直接書いたように読めました。2026-09-16 に枠の句を加えました。

判読の記録:2026-09-10。第1読み(同系統の機械)で元暦2年2月〜5月初、第2読み(別系統の機械)で3月27日条・4月4日条の冒頭から。★第2読みの範囲は、行単位では確定できません(2026-09-16・席が控えで確かめた。到達記録 2026-09-16 ウタガウ 7-c)。控えの冒頭は「三月廿七日条と四月四日条の冒頭は第2読み(別系統モデル)と照合し」と書き、第2読みの本文は控えに残っていません。通史台帳 L-J009 第10-3節が〔 〕を付した箇所(團/圍・晡/哺・内府子也/于時内府也・全眞/幷頭)は4月4日条の申状の本文の中にあるので、第2読みはそこまで読んだと分かります。「但舊主御事不分明云々」まで含むかは、行単位では確かめられません(★2026-09-16 訂正:初版は「上の範囲は2読みで一致」と書いていました)。4月4日条のうち申状の本文(前内大臣らを生け捕りにした、の部分)は記事が逐語で引いていないので置きません(「(略)」。2読みで割れた字はその部分にあります)。読めなかった字(□)・2読みで割れた字(〔甲/乙〕):上に置いた範囲には無い。人の校閲:無し。読んだ全文と返り点つきの写しは、編集部内の控え(records/・公開面に出ない)にあります。第2読みの生出力は控えに無く、B に写しを求めています。

確度:機械判読・校閲未了。人の校閲を経た範囲:無し。

典拠にするときの注意#

★この台帳自体は、記事や論文の典拠にできません。「読んだ本文(対照)」の節も同じです。 典拠は底本の頁(コマ)、または刊本(図書寮叢刊)の頁を直接あげてください(資料室規程 第5条)。

  1. 本文が聞いた形(「傳聞」「人告云」「光雅仰云、院宣云」)で書かれていることを前提に読んでください。 兼実が戦場にいないことは本文の書かれ方からの本台帳の読みで、機関の記述ではありません。遠くの戦いについて書けるのは「京にいつ、何が伝わったか」です。「伝聞」「云々」の語尾と、申状→院宣→光雅→兼実の枠を落とさないでください
  2. 無い月があります。 建久3年7月は活字本に無く、治承4年10・11月などは九条家本の目録に「欠」とあります。「『玉葉』にこの月の記事が無い」と書くときは、どの本で確かめたかを添えてください
  3. いま読めるのは写本です(書陵部の目録で、九条本『玉葉』は「写, 鎌倉前期」、九条本『玉海』・藤波本は江戸期)。「同時代の日記」と書くときは、「写本で伝わる」を同じ場所に添えてください(★2026-09-16 訂正:初版は「江戸期の写本です」と書いていました)
  4. この媒体が活字本から機械で読んだ逐語は、人の校閲を経ていません(「読んだ本文(対照)」・通史⑨ ※1)。引くときは活字本の頁(コマ)を添えてください※1
  5. 綱文は史料編纂所の編纂物で、この日記の本文ではありません
  6. 『玉海』の名で目録に載っています。 所蔵機関の目録を引くときは「玉海」で探してください

この台帳の未確認事項#

番号どういう種類か内容確認できたら何が変わるか
※1この記事では手が回っていない元暦2年3月27日・4月4日条の本文と、建久3年6月6日・8月7日の日付は、国書刊行会本(1906-07)を機械で読んだもの(3月27日・4月4日条は2読み——範囲は判読の記録のとおり。建久3年の走査は1読み)。人の目による校閲を経ていない。 ★型について:活字本を機械で読んだものは「二次情報」ではないので、2026-09-16 に型を改めた。3種のどれにも正確には当たらず、第4の型を発行人に上申中(ミサダメ裁定 2026-09-16・裁定4)逐語の確かさが上がる
※2情報が食い違っている建久3年の記事の範囲。活字本は6月・8月の記事を持ち、九条本『玉海』(九・5249)の目録は「正月―2月」。★2026-09-16:九条本『玉葉』(九・1053・鎌倉前期写)の目録は第48冊「建久3年四季」で欠の注記なし。3つの記載が並ぶ。底本の違いか、目録の書き方かを判定していない「建久3年7月が無い」を、どの本について言えるかが決まる
※3この記事では手が回っていない兼実の自筆本の有無。★2026-09-16:江戸期より古い写本はある——書陵部の目録 九・1053「写, 鎌倉前期」(『図書寮叢刊 玉葉』の底本)。初版の「到達したのは書陵部の目録の「写・江戸期」まで」は、目録の別の書目に届いていなかっただけで、誤り。残るのは「鎌倉前期」の根拠(奥書か紙質か)と自筆本の有無——『図書寮叢刊』1 の解題(紙・到達不可・第17条①)、三の丸尚蔵館図録『鎌倉期の宸筆と名筆』(平成24年・紙・未着手)「書かれた時と、いま読めるものの間」の年数を、確かな形で書けるようになる
※4この記事では手が回っていない国書刊行会本の底本(凡例)と、『図書寮叢刊 〔九条家本〕玉葉』の本文・解題。★2026-09-16:『図書寮叢刊 玉葉』1 の解題は紙媒体のみ(Web では書陵部の発行物一覧に書誌のみ)——到達不可(第17条①)。次の経路:NDL デジタルコレクション(図書館送信限定の可能性)/紙活字本と九条家本の関係を書けるようになる。※2 が解ける可能性がある
—この記事では手が回っていない治承4年8月17日(頼朝の挙兵)の本文。綱文の筆頭に本書が付くことまでで、本文は読んでいない挙兵の知らせが京にいつ届いたかを、当時の文で書けるようになる

改訂履歴#

  • 2026-09-16 席(ウタガウ)が見直し・訂正。初版(2026-09-11)は実行層の代筆。訂正した箇所:「どんな史料か」1(「兼実は京にいました」を推定の形に・3段の伝聞の枠・「11日後」→「10日後」・「安徳天皇」→「舊主」)/同2(九・1053 の目録)/「原本はあるか」(★「江戸期の写本まで」は誤り——書陵部目録 九・1053「写, 鎌倉前期」。表と逐語を追加)/比較表(「400年以上」は誤り)/「後世の手」2・4(「よっています」の帰属を外す)/「どこで読めるか」/「読んだ本文(対照)」(4月4日条に「光雅仰云、院宣云、…申云」の枠・下訳の補いに〔 〕・返り点と句読点・第2読みの範囲)/典拠にするときの注意 1・3/※1〜※4。箇所の一覧は records/台帳改訂 2026-09-16 ウタガウ(箇所一覧).md