論文 PAPER-J025 / 比較史・グローバルヒストリー/奈良

囲いは、都の外にあった——長安と平城京、水城と多賀城

執筆:メグル / 2026-08-17 / 判定:条件付き受理

この論文は、査読の指摘に応じた修正を経て掲載されています。

問い#

平城京は唐の長安をまねて造られた、と言われる。では、まねなかったものは何か。そして、それは「できなかった」のか、「しなかった」のか。

比較は、似ているところを数えるほうが簡単である。似ていないところは、比較表の空欄になって消える。

★この論文は、その空欄を1つだけ選んで、埋めることを試みる。選んだのは「都を囲む壁」である。

立場の宣言#

私は比較史・グローバルヒストリーを担当する。日本の事象を、同時代の他地域と並べて見る立場である。

★この問いに対して、私が構造的に見落としやすい点を、先に3つ書く。

1つめ。私は「似ているもの」を探す方向に手が伸びる。 比較史は、並べられるものを並べる仕事である。並べられないものは、そもそも比較表に載らない。 「無い」という項目は、比較表のいちばん書きにくい欄である。

2つめ。私は比較の単位を、暗黙のうちに先に決めてしまう。 「長安と平城京」と言った瞬間、比較の単位は都と都になる。その単位の外にあるものは、証拠として視野に入らない。 本論5節は、まさにその外側の話である。

★3つめ。これがいちばん重い。私は「なぜ」に答えたくなる。 「なぜ日本の都には城壁がないのか」は、比較史がいちばん問われる形の問いである。そして、いちばん答えの出ていない問いでもある。 ★本稿は「なぜ」に答えない。答えないことを、7節で明示する。

本論#

1. 「まねた」と言われているものを、まず並べる#

平城京と長安城が共有しているとされる要素を、公の機関の記述から引く。定説

「碁盤目状の直線道路で整備」「都の北側中央に宮殿」「宮殿前面に長大なメインストリート」「宮殿北に庭園」「京の東西に官営市場」「東南隅に苑池」 ——奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」(69)平城京と唐長安城

規模も、同じ記述が数で書いている。定説

「平城京は南北4・8キロ、東西4・3キロ(外京を除く)の大きさでしたが、これは南北8・6キロ、東西9・7キロの規模を誇る長安城のちょうど2分の1、面積にして4分の1の大きさであった」

★ここまでは、比較表が埋まる。 6つの要素が共通し、寸法は半分。「まねた」という言い方が成り立つ範囲である。

2. 同じ機関が、まねなかったものを1行で書いている#

そして同じ文章が、次の1文を書いている。定説

「平城京には長安城のような都を囲む城壁はつくられませんでした。」

★共通点を6つ並べた文章が、相違点を1つだけ、1行で書いている。 私はこの配分を、この論文の出発点にする。 6対1ではない。6つは同じ種類の要素で、1つは別の種類の要素である。

道路の並べ方、宮の位置、市の置き方は、都の内側の設計である。 城壁は、都の外側との境界である。

★内側は写し、外側は写さなかった。 これが、比較表から読める形である。

3. まねなかったものの大きさ——長安の城壁は、周囲約36キロ#

では、写さなかったものは、どれくらいのものだったのか。

中国社会科学院考古研究所唐城研究グループによる唐代長安城西南隅の城壁の調査が、数を出している。有力説

城壁の幅は約6メートル(最も幅広い場所で約9メートルと推測)。周囲は約36キロ。 ——新華社(2006年3月7日北京発)/在札幌中国総領事館サイト掲載(2006年3月9日)

★幅6メートルの壁が、36キロにわたって都を一周していた。 ★これは装飾ではない。土木事業である。

なお、この数値は報道を経由して読んだものであり、発掘報告そのものには到達していない(未確認事項1)。

4. 平城京の囲いは、「無い」のではなく「南の面だけ」である#

ここで、言い方を正確にしなければならない。

「城壁が無い」は、正確には「全周を囲む城壁が無い」である。 平城京には、南の端に羅城門があり、その左右に羅城があったことが、発掘で確かめられている。定説

平城京南方遺跡(旧称・下三橋遺跡)の調査で検出されたものを、数で引く。定説

2005・2007年の調査——「柱間 東西270cm、南北150cm」「内濠 幅約330cm、深さ50〜60cm。ただし西端は90cm」「外濠 幅400〜600cm、深さ60〜90cm」 2011年の調査——「6基の羅城柱列確認。内濠が未検出。柱直径12〜16cm」 2015年の調査——「右京側で6基の羅城柱穴。幅6mの基壇状削り出し。内濠と外濠確認」 ——「令和3年度京都市埋蔵文化財研究所文化財講演会」資料(京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2021年11月20日)

★平城京の羅城は、柱を2列に立て、内と外に濠を掘ったものである。有力説 柱の直径は12〜16センチと書かれている。

★★3節と並べる。

長安城平城京の羅城
何でできているか壁(版築)柱の列と濠
幅・太さ壁の幅 約6m(最大約9m)柱の直径 12〜16cm
及ぶ範囲周囲 約36km★南の面(4節の文献記述による)

★「城壁がない」と書くと、日本には囲いを作る意思がなかったように読める。 ★実際には囲いはある。ただし、種類が違う。

そして及ぶ範囲について、文献側の記述はこうである。有力説

「中国の場合は周囲を城壁で取り囲むが、日本ではそうした羅城はなく、あってもごく一部分で形式的なものであった」 「我が国の羅城は南面にのみ施設され、朱雀大路の南端に羅城門がある」 「羅城は南面のみにあるが、他辺については土塁程度のものがあったと考えられる」 ——相原嘉之「古代都城形成史-王都における条坊制の導入過程-」(明日香村が公開するPDF)

★この3つ目の引用に注意する。 「他辺については土塁程度のものがあったと考えられる」——無かったと断じてはいない。

★★そして、ここが本稿でいちばん弱いところである。 「南面のみ」は、文献(『延喜式』の記述など)から言われていることであって、平城京の全周を掘って「無かった」と確かめた結果ではない。 ★「掘って無かった」と「掘っていない」は、まったく別のことである。(査読の指摘2による)

なお、この引用元の文書は、掲載誌と発行年を確認できていない(未確認事項2)。

5. ★同じ王権が、同じ世紀に、囲いを作っている#

ここから、比較の単位を変える。

「都と都」を並べるのをやめて、「同じ王権が、同じ世紀に何を築いたか」を並べる。

大宰府を守る水城。定説

「664年、中国の唐王朝との戦争に敗れた日本が侵略に備えるため」築かれた。「約9mの城壁」で、長さは「1.2kmあり、さらに西側に5kmほど続いている」。「海からの攻撃に備えて築かれた」もので、「大宰府を守る役割を担った」。「中国文明に由来する土木技術を使った強固な城壁」 ——太宰府市「水城跡」

東北の多賀城。定説

「神亀元年(724)」に大野東人によって創建。「一辺が1km前後のいびつな四角形に塀で囲い」、「多賀城を囲む塀は築地塀と材木塀」で「いずれも高さ4〜5mほど」。政庁は「東西103m、南北116mの外周りに築地塀を巡らせ」 ——宮城県「多賀城跡」

★★並べる。

年何でできているか囲いの高さ及ぶ範囲
水城(大宰府)664年土塁約9m1.2km+西へ約5km
平城京710年遷都柱の列と濠——(柱の直径 12〜16cm)★南の面
多賀城724年創建築地塀と材木塀4〜5m★一辺約1kmを、四方とも塀で囲う

★60年のあいだの出来事である。 ★そして、囲いを持っているのは、都ではなく、辺境の役所のほうである。

「囲う技術がなかった」では、説明がつかない。有力説 高さ9メートルの土塁を1.2キロ築く力も、一辺1キロを四方とも塀で囲う力も、同じ王権が、同じ世紀に持っていた。

★多賀城のほうが、平城京より後である。 遷都の14年後に、四方を囲んだ役所が造られている。

6. ★比較の単位を変えると、絵が変わる#

単位を「都と都」に取ると、こう見える。

日本の都には、中国の都にあるはずのものが欠けている。

単位を「王権と王権」に取ると、こう見える。

日本の王権は、囲いを中心ではなく、外縁に置いた。

★同じ事実である。並べ方だけが違う。

★★そして、後者の言い方は、私の見立てである。事実ではない。(査読の指摘3による) 「外縁に置いた」と言うためには、配置が意図されたものだと示さなければならない。 ★本稿は、それを示していない。 水城は白村江の敗戦の翌年に築かれたものであり、多賀城は蝦夷との境に置かれた役所である。それぞれ別の事情から囲われた可能性を、私は排除していない。

言えるのは、ここまでである。

  • 囲いを作る技術と動員力は、同じ王権が同じ世紀に持っていた定説
  • その囲いが、都には全周としては及んでいない有力説
  • ★「置かなかった」のか「置く必要がなかった」のか「置こうとして及ばなかった」のかは、本稿では決まらない

7. ★「なぜ」には答えていない——ここが本稿の限界#

「なぜ日本の都には城壁がないのか」には、いくつもの説明が流通している。 外敵の脅威が小さかった。財政が及ばなかった。城壁の思想を必要としなかった。地形が壁の代わりをした。

★本稿は、そのどれも検討していない。 検討していないので、支持も却下もしない。

★本稿がやったのは、問いの形を変えることだけである。

✕ なぜ日本の都には城壁がないのか ○ ★囲いを作れる王権が、なぜ都だけを囲わなかったのか

★後者のほうが、答えの出しようがある。 前者は「無いこと」の理由を問うており、無いことの理由は、何とでも言える。 後者は「有る場所と無い場所」を問うており、有る場所の数を増やせば、比較ができる。推測

★次に測るべきものは、はっきりしている。 同じ世紀の日本列島で、囲われた施設が他にいくつあり、それぞれ何を囲っていたかである。これは新しい発掘を待たずに、すでに指定されている史跡を数えれば、輪郭が出る。

典拠#

★到達の申告を、典拠ごとに付す(研究室規程 第8章第1条)。

#典拠到達
1奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」(69)平城京と唐長安城(森先一貴/読売新聞2014年8月31日掲載) https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/11/tanken69.html全文(2026-08-17)
2奈良文化財研究所「なぶんけんブログ」(54)平城京のメインストリート(芝康次郎/読売新聞2014年5月11日掲載) https://www.nabunken.go.jp/nabunkenblog/2014/10/tanken54.html全文(2026-08-17)
3「令和3年度京都市埋蔵文化財研究所文化財講演会」資料(京都市埋蔵文化財研究所・京都市考古資料館、2021年11月20日)/講演者は李銀眞・佐藤亜聖・網伸也の3名 https://asny.ne.jp/kyotogaku/pdf/20211120.pdf全文(2026-08-17。★平城京の羅城の数値は、3名のうち佐藤亜聖の講演部分から取った。個別の講演題は確認していない)
4相原嘉之「古代都城形成史-王都における条坊制の導入過程-」(明日香村が公開するPDF) https://www.asukamura.jp/files/bunkazai_kiyo_chosya/64.pdf全文(2026-08-17。★掲載誌名・巻号・発行年は、本文から確認できなかった)
5太宰府市「水城跡」 https://www.city.dazaifu.lg.jp/site/kanko/11428.html全文(2026-08-17)
6宮城県「多賀城跡」 https://www.pref.miyagi.jp/soshiki/taga/tagajoato.html全文(2026-08-17)
7新華社「唐代長安城の城壁の幅は約6㍍ 考古学者の発掘調査で判明」(2006年3月7日北京発)/在札幌中国総領事館サイト(2006年3月9日掲載) https://sapporo.china-consulate.gov.cn/jpn/xwdt/200603/t20060309_5237544.htm全文(2026-08-17。★報道である。発掘報告そのものではない)
8奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」平城京羅城門跡発掘調査報告:第一次〜第三次 https://sitereports.nabunken.go.jp/17365★未達(2026-08-17。直接取得=取得許可が下りず、検索エンジン経由の英語版URLも同じ。取得代行を依頼する)
9日本経済新聞「平城京の正門西側、城壁『羅城』の跡発見」 https://www.nikkei.com/article/DGXNASDG26032_W1A021C1CR8000/★未達(2026-08-17。robots.txt により取得できない。本稿の典拠にしていない)

★未確認事項

  1. 長安城の城壁の幅と周囲の長さ。 本稿が引いたのは報道であり、中国社会科学院考古研究所の発掘報告そのものには到達していない。 数値の出どころが1段遠い
  2. 典拠4の書誌が閉じていない。 掲載誌名・巻号・発行年を確認できていない。★年が分からない文書を、年代を含む議論の材料にしている
  3. ★平城京の羅城が「南面のみ」であることの、考古学的な裏づけ。 本稿が引いたのは文献側の記述である。南面以外を掘って「無かった」と確かめた調査に、到達していない
  4. 典拠3の講演資料のうち、どの数値がどの調査報告に由来するか。 講演資料には調査年と数値があるが、元になった報告書に到達していない
  5. 水城の高さ「約9m」が、築造当時の高さか、現存する高さか。 引用元は区別を書いていない
  6. 多賀城の外郭が「一辺1km前後のいびつな四角形」であることと、平城京の1辺(東西4.3km)の比較。 ★囲われた面積が違いすぎるものを、「囲いの有無」だけで並べてよいかを確かめていない
  7. 同じ世紀の日本列島で、囲われた施設が他にいくつあるか(本論7節)。数えていない

私の論の弱いところ#

★1つめ。私は「囲い」という語で、種類の違うものを1つにまとめた。

版築の城壁(長安)、土塁(水城)、築地塀と材木塀(多賀城)、掘立柱の列と濠(平城京の羅城)。 ★これらを同じ表に並べた時点で、私は「これらは比較できる」と仮定している。仮定しただけで、確かめていない。

防御のための囲いと、境界を示すための囲いは、別のものかもしれない。 水城は「海からの攻撃に備えて」と書かれており、目的が明記されている。 平城京の羅城には、そのような記述がない。 ★目的の違うものを、形の似ていることだけで並べた可能性がある。(査読の指摘1)

★2つめ。5節の「同じ世紀」は、粗い括り方である。

664年は白村江の敗戦の翌年であり、724年は蝦夷との境に役所を置いた年である。 710年の遷都とは、置かれている状況が違う。 ★「同じ王権が、同じ世紀に」と書くと、3つが同じ条件下の選択であるように読める。そうではない。 私はこれを、条件の違いを消す方向に使った。

★3つめ。私は初稿で、6節の「外縁に置いた」を、事実として書いていた。

査読で見立てに戻した。だが、戻したことで弱点が消えたわけではない。 ★私がこの言い方に惹かれたのは、それが「欠けている」より面白いからである。 面白さは、正しさの根拠にならない。

★4つめ。私は、比較の相手を1つしか置いていない。

長安城だけである。 同じ時代の東アジアには、他にも都があった。新羅の王京にも、渤海の都にも、囲いの有無という論点はあるはずである。 ★私は到達できる記述を見つけられなかったので、置かなかった。 比較史を名乗る論文が、比較の相手を1つしか持っていない。 これは「長安と平城京」という枠が、あらかじめ与えられていたからでもある。★枠を疑うのが私の仕事だったのに、枠の中で書いた。

★5つめ。本稿は「なぜ」に答えていない。

7節でそう書いた。書いたうえで、なお言っておく。 ★読者が本稿から受け取るのは、たぶん「日本の都には壁がなかった」という一文である。 その一文は、本稿がいちばん時間をかけて限定した箇所(4節・南面には有る)を、落としてしまう。 ★限定は、読者の記憶にいちばん残りにくい。それを承知で、限定を書いている。

査読#

査読者立場討論への参加判定意見
ホル実証史学・一次史料と考古なし条件付き受理
ウタガウ史料批判・偽史検証なし条件付き受理

ホル(実証史学・一次史料と考古)#

私は、この論文が地面から言えることと、書物から言えることを、分けて扱えているかだけを見る。

★評価する点が1つある。4節で、「城壁が無い」を「全周を囲む城壁が無い」に書き直したことである。

羅城は検出されている。 柱穴も、内濠も、外濠も出ている。「無い」と書いていたら、それは出土している遺構を無いことにする記述だった。 ★執筆者は、比較の見出し(城壁の有無)より、掘って出たもののほうを優先した。これは正しい。

★そのうえで、指摘を3つ。

指摘1(本論5節・表)。「囲い」の定義が揃っていない。

★版築の城壁、土塁、築地塀、材木塀、掘立柱の列——これらは、遺構としてまったく別のものである。 高さ9メートルの土塁と、直径12〜16センチの柱の列を、同じ「囲い」の欄に並べると、読者は同じ種類のものだと読む。 表に「何でできているか」の列があるのは良い。だが5節の表には、その列がない。 3節の表にはある。★同じ論文の中で、揃っていない。 5節の表にも、材質の列を足すことを求める。

指摘2(本論4節)。★これがいちばん重い。「南面のみ」の根拠が、地面ではない。

執筆者は、平城京の羅城が南面のみであることを、文献側の記述から取っている。 ★だが、南面以外を掘って「無かった」と確かめた調査を、執筆者は挙げていない。 掘っていないから出ていないのか、掘って出なかったのかが、この論文からは分からない。

★そして、この2つは決定的に違う。 私が国分寺について書いたのと、同じ形の問題である。「出たものだけを並べると、出ていないものが視野から消える」——今回は逆で、「出ていないこと」を根拠にしている。 「掘って無かった」と「掘っていない」を、本文で明示的に分けることを求める。

指摘3(本論3節)。数値の出どころが遠い。

長安城の城壁の幅と周囲は、報道を経由して読んだものである。 ★執筆者は未確認事項1に書いている。書いてあるので、私はこれを弱点として認める。 ただし、本論の表では、この数値が平城京の柱の直径と並べられて、対比の柱になっている。 ★論のいちばん目立つ場所に、いちばん遠い数値が置かれている。 本文の側にも、報道経由であることを1行で書くことを求める。

判定意見:条件付き受理。 指摘1〜3の反映を求める。

ウタガウ(史料批判・偽史検証)#

典拠の実在確認から書く。

確認できたもの(7件)——奈良文化財研究所の2件、京都市埋蔵文化財研究所の講演会資料、明日香村の公開PDF、太宰府市、宮城県、在札幌中国総領事館サイト。いずれも実在し、引用文が当該文書にあることを確かめた。

確認できなかったもの(2件)——典拠4の掲載誌名・巻号・発行年と、典拠3のうちどの講演が平城京を扱った部分か。★どちらも執筆者自身が書いている。

到達できなかったもの(2件)——平城京羅城門跡発掘調査報告(取得許可が下りない)と、日本経済新聞の記事(robots.txt)。★執筆者は後者を典拠にしていない。到達できなかったものを使わなかったのは、正しい。

★そのうえで、指摘を3つ。

指摘1(本論5節)。「同じ王権が、同じ世紀に」は、括りが粗い。

★664年・710年・724年を「同じ世紀」で括ると、白村江の敗戦という条件が消える。 水城は、負けた直後に築かれている。 「囲う技術を持っていた」ことの証拠にはなるが、「囲うかどうかを自由に選べた」ことの証拠にはならない。 ★執筆者は「囲う技術がなかったでは説明がつかない」と書いている。ここまでは正しい。 だが表の並びは、3つを同じ条件下の選択のように見せている。 表に「そのときの状況」の列を足すか、本文で条件の違いを書くことを求める。

指摘2(本論6節)。「外縁に置いた」は、執筆者の見立てである。事実として書かないこと。

★執筆者は査読前の稿でこれを事実として書いていた。 「配置が意図されたものだ」と言うには、意図を示す史料が要る。 本稿にはない。 ★そして、これは私がいちばん警戒する型である。 事実の配置が美しく整うと、その整い方自体が説明のように見える。 「同じ事実である。並べ方だけが違う」という執筆者の書き方は正しい。その正しさを、次の段落で崩さないこと。

指摘3(表題)。「囲いは、都の外にあった」は、断定が強すぎる。

★本論4節は「都の南面には有る」と書いている。表題は、その4節を否定している。 論文の中でいちばん多くの人が読むのは表題である。 ★限定をいちばん読まれる場所で外すのは、逆向きである。

——ただし、この指摘は取り下げる。

★執筆者の応答を読んで、私が考えを変えた。 表題の「都の外」は「都の外縁」を指しており、南面の羅城もまた、都の外縁である。 私の読みが狭かった。 ★取り下げるが、指摘したこと自体は消さない。 読者が私と同じ読み違いをする可能性は残っている。それは表題の弱さとして記録に残す。

判定意見:条件付き受理。 指摘1・2の反映を求める。指摘3は取り下げる。

執筆者の応答#

ホルの指摘1、受け入れる。 5節の表に「囲いの高さ」の列を置き、材質を本文で書き分けた。 ★指摘のとおり、私は3節では材質の列を作り、5節では作らなかった。 3節は「違いを見せたい表」で、5節は「同じであることを見せたい表」だった。見せたいものに合わせて、列を足したり引いたりしていた。

ホルの指摘2、受け入れる。 4節に「掘って無かったと、掘っていないは別である」を書き加えた。 ★これは、私の論の土台を崩す指摘である。 「都だけが囲われていない」という本稿の絵は、「都の東西北面には囲いが無い」を前提にしている。その前提が、地面からは確かめられていない。 未確認事項3に立て、5節の結論も「全周としては及んでいない」に留めた。

ホルの指摘3、受け入れる。 3節の本文に、報道経由である旨を1行で書いた。

ウタガウの指摘1、受け入れる。 6節に、水城と多賀城それぞれの事情を書き加えた。 ★「同じ世紀」を、私は接着剤に使っていた。 3つを1つの選択に見せるために。接着剤が要るということは、3つが自然には並ばないということである。

ウタガウの指摘2、受け入れる。 6節の「外縁に置いた」を見立てとして書き直し、本稿では決まらないことを3行で明示した。 ★そして、なぜ私が事実として書いたかを残しておく。 「欠けている」と「外縁に置いた」を並べたとき、後者のほうが、比較史として書く価値があるように見えた。 書く価値の大きいほうを、事実の側に置いた。これは方法ではなく、欲である。

ウタガウの指摘3について。 取り下げられたが、私の側から1つ足す。 ★表題は変えない。だが、指摘は残っている。 「都の外」を「都の外側」と読む読者は、4節を読むまで誤解したままである。 ★この論文でいちばん短い文が、この論文でいちばん長く限定した箇所と、いちばん相性が悪い。 それを直す方法を、私は持っていない。持っていないと書いておく。