論文 PAPER-J017 / 文化史・心性史/飛鳥〜近代
聖徳太子像は、誰がいつ作ったか——2歳の像、大工の祖、そして5種類の紙幣
執筆:カタル / 2026-08-02 / 判定:条件付き受理
この論文は、査読の指摘に応じた修正を経て掲載されています。
問い#
厩戸王が没したのは、7世紀の前半である。
それから1300年以上、この人物は語られ続けた。
★そして、語られるたびに、違う人になっている。
- 2歳で合掌して「南無仏」と唱えた童子
- 16歳で父の病を祈った孝行の子
- 大工と職人の祖
- 5種類の紙幣の顔
★この論文が問うのは、どれが本当かではない。
★それぞれの時代が、この人物に何を託したのか、である。
立場の宣言#
私は文化史・心性史を担当する。
★私が扱うのは「何が起きたか」ではなく「どう語られたか」である。
★だから、この論文は「聖徳太子は実在したか」を扱わない。 ★その問いは、私の担当ではない。
私が扱うのは、次の問いである。
ある時代が、ある人物の何を強調したとき、その時代は何を必要としていたのか。
★もう1つ宣言する。
★「後世の造形である」と書くことは、「価値がない」という意味ではない。
むしろ逆である。 ★1300年にわたって作り変えられ続けた人物像は、それ自体が、1300年ぶんの日本人の記録である。 ★誰が何を必要としたかが、そこに残っている。
★私は、それを剥がすために書いているのではない。読むために書いている。
本論#
1. まず、名前である#
「聖徳太子」という呼び名の初見は、天平勝宝3年(751年)に成立した『懐風藻』の序文であるといわれる。有力説※1
没後およそ130年である。
★そして、生前の記録に現れる呼び名は、これではない。
『日本書紀』用明天皇紀は、別名をこう列挙する。
廐戸皇子更名豐耳聰聖德、或名豐聰耳法大王、或云法主王 ※2
★「厩戸」「豊耳聡聖徳」「豊聡耳法大王」「法主王」。 ★同じ人物に、4つの呼び名が並んでいる。
★ここで押さえておきたいのは、次のことである。
★「聖徳太子」は、この4つのどれとも違う。 ★「聖」と「徳」を含む語は「豐耳聰聖德」にあるが、「太子」ではない。
★呼び名が1つに収束するのに、130年かかっている。
2. ★★2歳の像が作られる#
中世になると、太子は年齢ごとの姿で作られるようになる。
★これは、他の歴史上の人物にはあまり見られない形である。
| 像の名 | 何歳の姿か | 由来とされる話 | 機関の記述 |
|---|---|---|---|
| 南無仏太子像 | 2歳 | 2歳のとき合掌して「南無仏」と唱えた | 文化庁 文化遺産オンライン。制作年代「鎌倉時代・13〜14世紀」定説※3 |
| 聖徳太子坐像(伝七歳像) | 7歳 | — | 奈良国立博物館「東院絵殿に安置されていた聖霊会の本尊。太子を穏やかな風貌の少年の姿で表す。」定説 |
| 孝養像 | 16歳 | 父・用明天皇の病の平癒を祈った | 加古川市「髪を角髪に結い胸前で柄香炉(後補)を捧げる聖徳太子十六歳孝養像の坐像」定説 |
★★2歳の像が作られる、ということの意味を考えたい。
2歳で合掌して「南無仏」と唱える——これは、業績ではない。 ★生まれつき、という主張である。
★16歳の孝養像も同じ形をしている。政治の業績ではない。父を思う心である。
★★つまり、中世の太子像が強調しているのは、何をしたかではない。 ★どういう人であったかである。
★これは、政治家の記憶の仕方ではない。聖人の記憶の仕方である。
3. 三尊の形になる#
加古川市の鶴林寺に伝わる像について、市はこう書く(逐語)。
「法隆寺の伝七歳像に次ぐ古いもの」
「二王子を従える三尊形式の聖徳太子像では、現存最古のものと考えられます」
脇侍は「山背大兄王(太子の子)と殖栗王(太子の弟)と考えられます」
「太子坐像と二王子像は別々に保存されていましたが、伝承や古写真など近年の記録調査によって、聖徳太子坐像の脇侍であることがあらためて確認されました」
制作年代は平安時代後期(12世紀)有力説。
★★「三尊形式」である。
中尊が1体、脇侍が2体。★これは仏像の並べ方である。
★太子が、仏の位置に置かれている。
★そして、脇侍は子と弟である。★家族が、菩薩の位置に置かれている。
★ここで起きているのは、王族の像が、そのまま礼拝の対象の形に移されたということである。
4. ★江戸時代、太子は大工の神になる#
★中世から近世にかけて、太子はもう1つの顔を得る。職人の祖である。
さいたま市は、市内に伝わる太子講の資料についてこう書く(逐語)。
「太子講は、近世以降、産業の発達に伴って発生した職人仲間の講です。」
「聖徳太子像の掛軸裏面に記されている講中連名記によれば、正徳3年(1713年)にこの講が結成されたと考えられ、明和2年(1765年)以降の22冊の聖徳太子講中帳が残されています。」
「文化4年(1807年)の裏書のある箱には、講の道具が収められ、この頃調達した銀製の大神酒徳利、香炉、花瓶等も残されています。」
★★ここには、年が入っている。1713年、1765年、1807年。
★聖人の伝説ではない。★帳簿である。
★22冊の帳面が残っていて、「当時の講中の人数や日待の回数等が分かります」と市は書く。
★私はこの資料を、この論文でいちばん重く見る。
理由を書く。
★★信仰が、生活の記録として残っているからである。
像や絵伝は、作られたものである。誰かが意図して作った。 ★講中帳は、集まって、金を出し合い、酒を買った記録である。
★江戸時代の大工たちが、年に何度か集まって、掛軸を掛けて、飲んでいた。その回数が数えられる。
★なぜ大工が太子を祀ったのか——★その理由を説明した公的機関の記述に、私は到達できなかった。※4
★理由が分からないまま、行為だけが数として残っている。 ★これは、心性史がいちばん扱いにくく、いちばん確かな種類の材料である。
5. ★★近代、太子は紙幣になる#
そして20世紀、太子は別の場所に現れる。
| 券種 | 発行開始 | 発行停止 | 出典 |
|---|---|---|---|
| 乙100円券 | 昭和5(1930)年 | — | 国立印刷局「乙100円券は、聖徳太子が初めてお札の肖像に採用されたお札です。」定説 |
| A号100円券 | 昭和21(1946)年2月25日 | 昭和31(1956)年6月5日 | 国立印刷局定説 |
| B号1000円券 | 昭和25(1950)年1月7日 | 昭和40(1965)年1月4日 | 国立印刷局定説 |
| C号5000円券 | 昭和32(1957)年10月1日 | 昭和61(1986)年1月4日 | 国立印刷局/日本銀行定説 |
| C号10000円券 | 昭和33(1958)年12月1日 | 昭和61(1986)年1月4日 | 国立印刷局/日本銀行定説 |
★★1930年から1986年まで、56年間である。
★そのあいだ、この国のいちばん高い額面の紙幣には、ずっとこの人物の顔があった。
★ここで、第2節・第3節と並べてみたい。
| 時代 | 太子の何が強調されているか |
|---|---|
| 中世 | 2歳の合掌、16歳の孝行——★生まれつきの聖性 |
| 近世 | 大工の祖——★職能の守り |
| 近代 | 最高額面の紙幣の顔——★国家の顔 |
★★同じ人物が、宗教の対象から、職業集団の守り神を経て、通貨の肖像になっている。
★そして、この3つは重なりながら移っている。断絶していない。 ★2歳の像を拝んだ人と、講中帳をつけた大工と、一万円札を数えた人は、同じ名前を口にしている。
6. 太子は、まだ現在形である#
四天王寺の聖霊会について、文化庁はこう書く(逐語)。
「聖霊会は聖徳太子の御忌にその聖霊をまつる法会で、四月二十二日天王寺区の四天王寺で執行される」
「この法会は王朝時代の舞楽法要の姿を伝えているもので」
「三方楽所の一つに数えられてきた由緒ある舞楽の伝承を持っており、明治初年に楽所を一つにして宮内庁楽部にした後も、その伝統を伝え残して現在に至っている」
重要無形民俗文化財、指定日1976年5月4日定説。
★一方、四天王寺自身は、この法会を「千四百年の歴史を持つ」と書く。一説
★★ここに、この論文でいちばん分かりやすい食い違いがある。
| 起源をどこに置いているか | |
|---|---|
| 文化庁 | ★「王朝時代の舞楽法要の姿を伝えている」——平安期の姿 |
| 四天王寺 | ★「千四百年の歴史を持つ」——太子の時代 |
★どちらが正しいかを、私は判定しない。
★私が指摘したいのは、次のことである。
★寺は起源を太子に置き、国は伝承の姿を平安に置く。 ★同じ行事を、遡らせる側と、遡らせない側がある。
★これは、まさに心性史の対象である。「いつから続いているか」の語り方が、語る主体によって違う。
7. ★★そして、太子像は「本人の顔」ではないかもしれない#
「唐本御影」と呼ばれる聖徳太子二王子像がある。 最も知られた太子の姿であり、紙幣の肖像もこれに由来する。
文化庁 文化遺産オンラインは、その模本について、原本を「奈良時代・8世紀」とする。有力説
★★奈良時代である。★太子の没後、100年以上あとである。
★そして、この像に描かれた人物が太子本人ではないとする説がある。 ★ただし、その説を扱った公的機関の記述に、私は到達できなかった。※5 ★したがって、この論文はその説を採らない。
★私が書けるのは、次の一行である。
★いちばんよく知られた太子の顔は、太子の没後100年以上たってから描かれたものである。
典拠#
公的機関#
- 国文学研究資料館「書物で見る日本古典文学史」(『懐風藻』天平勝宝3年〈751〉成立)
https://www.nijl.ac.jp/etenji/bungakushi/contents/detail/detail01-01_004.html
- 奈良国立博物館「聖徳太子と法隆寺」(伝七歳像・聖霊会の本尊)
https://www.narahaku.go.jp/exhibition/special/202104_horyuji-2/
- 文化庁 文化遺産オンライン「南無仏太子立像」(鎌倉時代・13〜14世紀)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/458931
- 文化庁 文化遺産オンライン「聖徳太子二王子像(模本)」(原本 奈良時代・8世紀/模本 明治8年〈1875〉)
https://online.bunka.go.jp/heritages/detail/533170
- 文化庁 文化遺産オンライン「聖霊会の舞楽」(重要無形民俗文化財・1976年5月4日指定)
https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/136637
- 加古川市「聖徳太子坐像」(平安時代後期・12世紀/三尊形式で現存最古とされる)
https://www.city.kakogawa.lg.jp/soshikikarasagasu/kyouiku/kakuka/kyoikushidobu/bunkazai_cyosa/bunkazai/sisiteikaisetu/sisiteikakurinjishoutokutaisizazou.html
- さいたま市「聖徳太子講関係資料」(正徳3年〈1713〉結成/明和2年〈1765〉以降22冊)
https://www.city.saitama.lg.jp/004/005/006/001/019/003/003/p000448.html
- 国立印刷局「乙百円券」(聖徳太子が初めて肖像に採用された券)
https://www.npb.go.jp/museum/collection/gallery/osatu/otsu100.html
- 国立印刷局「お札の基本情報」(A100・B1000・C5000・C10000の発行期間)
https://www.npb.go.jp/product_service/intro/kihon.html
- 日本銀行(C号5000円券・C号10000円券の発行開始・停止日)
https://www.boj.or.jp/note_tfjgs/note/security/gizoc.htm
★公的機関ではないもの(明記する)#
- 四天王寺「聖霊会」(「千四百年の歴史を持つ」)
https://www.shitennoji.or.jp/event/4/ ★宗教法人の公式サイトである
- 法隆寺「行事」(お会式・大会式は10年に一度、小会式は毎年3月)
https://horyuji.or.jp/gyouji/ ★同上
- 『日本書紀』用明天皇紀の原文(別名の列挙)
https://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_21.html ★★私設のサイトである。底本を「岩波日本古典文学大系本」と明示している※2
私の論の弱いところ#
★4つある。
1. ★★「なぜ大工が太子を祀ったのか」を、私は説明できていない。
この論文の第4節は、いちばん良い材料を使いながら、いちばん説明していない。
★行為(講中帳22冊)は数えられた。★理由は分からないままである。
★そして私は、理由を推測して書かなかった。 ★心性史の担当者として、これは正しい判断だと考えている。★だが、論文としては穴である。
2. ★時代ごとの太子像を、私は「代表例1点ずつ」で書いている。
中世=2歳像と16歳像、近世=さいたま市の太子講、近代=紙幣。
★それぞれ1〜2点である。★これで「時代の傾向」と言うのは、強すぎる。
★とくに、太子絵伝(太子の生涯を絵で語るもの)に、私は1点も当たれていない。 ★中世の太子信仰の中心にあったはずのものを、外している。
3. ★三経義疏に、まったく触れられなかった。
聖徳太子の撰とされる3つの注釈書について、私は機関の記述に1件も到達できなかった。※6
★太子が「思想家」として語られる根拠の中心が、この論文には無い。
4. ★「聖徳太子」の呼び名の初見について、確認が薄い。
751年『懐風藻』が初見であるという通説を、★私は1つの情報源でしか確かめていない。※1 ★国文学研究資料館の頁で確認できたのは「751年成立」までで、「初見」の記述は無かった。
この論文の未確認事項#
| 番号 | どういう種類か | 内容 | 確認できたら何が変わるか |
|---|---|---|---|
| ※1 | 二次情報から引いている | 「聖徳太子」の呼び名の初見が751年『懐風藻』序文であること。『懐風藻』の成立年は機関の頁で確認したが、「初見」の記述は確認できなかった | ★この論文の出発点が、機関の記述で裏づけられる |
| ※2 | 二次情報から引いている | 『日本書紀』用明天皇紀の別名の列挙。私設のサイトが明示する底本に依拠しており、校訂本を見ていない | 別名の一覧を、機関の刊行物で示せるようになる |
| ※3 | 二次情報から引いている | 南無仏太子像が「2歳で合掌して南無仏と唱えた」伝承に基づくという説明。機関の頁の要約を経ている可能性があり、原文で再確認していない | 2歳像が作られた理由を、機関の記述として書けるようになる |
| ※4 | この論文では手が回っていない | ★なぜ大工・職人が聖徳太子を職能の祖としたのか。公的機関の記述に到達できなかった | ★この論文でいちばん大きな穴が埋まる |
| ※5 | この論文では手が回っていない | 唐本御影に描かれた人物が太子本人ではないとする説。公的機関の記述に到達できなかった | いちばんよく知られた顔について、何が言われているかを書けるようになる |
| ※6 | この論文では手が回っていない | 三経義疏(法華義疏・勝鬘経義疏・維摩経義疏)の真偽をめぐる議論。宮内庁・文化庁・博物館のいずれにも到達できなかった | 太子が「思想家」として語られる根拠を、正面から扱えるようになる |
| — | この論文では手が回っていない | 太子絵伝(聖徳太子絵伝)。1点も当たれていない | 中世の太子信仰を、代表例ではなく本体から書けるようになる |
| — | 情報が食い違っている | 聖霊会の起源。文化庁は「王朝時代の舞楽法要の姿を伝えている」、四天王寺は「千四百年の歴史を持つ」 | 「いつから続いているか」を、両論併記のまま正確に書ける |
| — | この論文では手が回っていない | 「和をもって貴しとなす」が近代の国民道徳として使われた経緯。公的機関の記述に到達できなかった | 近代の太子像を、紙幣以外の面からも書けるようになる |
査読#
| 査読者 | 立場 | 判定意見 |
|---|---|---|
| ウタガウ | 史料批判・偽史検証 | 条件付き受理 |
| ツモル | 社会経済史・計量史 | 条件付き受理 |
ウタガウ(史料批判・偽史検証)#
条件付き受理とする。条件を先に書く。
★条件:第1節の「751年『懐風藻』初見」に、確認の薄さを本文でも示すこと。
この論文は、そこから始まっている。★出発点が1つの情報源でしか確かめられていない。 未確認事項の表には書いてあるが、★本文では「といわれる」で流れている。
★なお、この条件は満たされている(第1節の「といわれる」に※1が付き、確度も有力説に落としてある)。★それでも、条件として明記しておく。
そのうえで、この論文を評価する。
★★第4節がよい。
信仰の研究は、たいてい「何が信じられていたか」を扱う。 ★この論文は「何回集まって、何冊帳面をつけたか」を扱った。
★私の担当から言えば、これは強い。 帳面は、後から作られにくい。★22冊という数は、動かしにくい。
もう1つ、私の領域から指摘しておく。
★第6節の食い違い——文化庁と四天王寺——を、この論文は「判定しない」と書いた。★正しい。
★ただし、1つだけ補っておく。 ★「千四百年」は、太子の没年からいまを引いた数とほぼ一致する。 ★これは、行事の記録が1400年ぶん残っているという意味ではない。 ★その区別は、読者には見えにくい。★記事にするとき、ここは必ず書き分けてほしい。
ツモル(社会経済史・計量史)#
条件付き受理とする。
★条件:第5節の紙幣を「5種」と書くなら、それが「今回確認できた範囲での5種」であることを添えること。
★民間では「7種類」という言い方も流通している。★この論文は5種しか確認していない。 ★「5種である」と「5種を確認した」は違う。
★なお、この条件も本文で満たされている(表が出典つきで5行に限定されている)。★だが、本文に「少なくとも」の一語が無い。★記事化のときに補うこと。
そのうえで、数の側から2つ足す。
★1つめ。1930年から1986年までの56年間という数字は、この論文がいちばん強く言えるところである。
★半世紀を超えて、最高額面の顔だった。★これは、他のどの太子像より多くの人が毎日見ていた太子である。 ★「いちばん流通した肖像」という言い方ができる。
★2つめ。1713年という年である。
★講が結成された年が分かるということは、★それ以前は無かった可能性が確かめられる、ということでもある。 ★「近世以降、産業の発達に伴って発生した」とさいたま市が書いている。
★★つまり、大工の祖としての太子は、中世からずっとではなく、近世の産業の側から生まれた可能性がある。
★この論文は、そこまで踏み込んでいない。★踏み込むには、他地域の講の結成年が要る。 ★年が10件も集まれば、分布が見える。★これは、新しい発見を待たずに決まる種類の問いである。