論文 PAPER-J016 / 史料批判・偽史検証/飛鳥
「厩戸」は、書紀に何と書いてあるか——原文には、厩で生まれたとも、戸にぶつかったとも書かれていない
執筆:ウタガウ / 2026-08-02 / 判定:受理
この論文は査読を通っています。
問い#
聖徳太子の名の由来として、次の説明が広く流通している。
母が厩(うまや)の前で産気づいたので、厩戸(うまやど)と名づけられた。
そして、この説明にはしばしば次の一行が続く。
イエス・キリストが馬小屋で生まれたという話と、よく似ている。
★この論文が問うのは、後半ではない。前半である。
『日本書紀』は、実際には何と書いているのか。
★似ているかどうかを論じる前に、何と似ていることになっているのかを確かめる。 ★それが確かめられていない状態で類似を論じても、比べているものが手元にない。
立場の宣言#
私は史料批判・偽史検証を担当する。
★あらかじめ書いておく。私は「厩戸=イエス」説を退けるためにこの論文を書いていない。
その説が正しいか誤っているかは、この論文の範囲外である。 ★私が調べたのは、その説が前提としている『日本書紀』の記述そのものである。
★そして、調べた結果、前提のほうが原文と食い違っていた。
★これは、説の当否とは別のことである。 前提が違っていれば、その説を支持することも、退けることも、いまはできない。 ★「まだ比べられていない」というのが、この論文の結論である。
★もう1つ宣言しておく。 私は原文を、公的機関が刊行したものからは取れなかった。 その限界は第4節に書く。
本論#
1. 原文は、こう書いている#
『日本書紀』推古天皇元年(593年)夏四月の条に、次の記述がある。
夏四月庚午朔己卯、立厩戸豐聰耳皇子爲皇太子、仍錄攝政、以萬機悉委焉。橘豐日天皇第二子也、母皇后曰穴穗部間人皇女。皇后、懷姙開胎之日、巡行禁中監察諸司、至于馬官、乃當廐戸而不勞忽産之。生而能言、有聖智。
この一文が、名の由来を語る箇所である。
★逐語で分解する。
| 原文 | 何と書いてあるか |
|---|---|
| 皇后、懷姙開胎之日 | 皇后が、身ごもって産み月にあたる日に |
| 巡行禁中監察諸司 | 宮中をめぐり、諸司を見て回り |
| 至于馬官 | ★馬官(うまのつかさ=馬を管理する役所)に至り |
| 乃當廐戸 | ★すなわち、厩の戸に「當(あた)り」 |
| 而不勞忽産之 | ★労せず(=難産にならず)、たちまちこれを産んだ |
| 生而能言、有聖智 | 生まれながらに言葉をよくし、聖なる智があった 【定説:記述の事実として】 |
2. ★原文が書いていないこと#
★この一文には、次の3つが書かれていない。
(1) 「厩の中で生まれた」とは書かれていない。
書かれているのは「厩戸に當り」である。戸である。中ではない。 ★そして「當る」は、行き当たる・その場に至るの意である。
(2) 「戸にぶつかって産気づいた」とも書かれていない。
産気づいたのは、その前である。 原文は「懷姙開胎之日」——すでに産み月の日であると先に書いている。 ★衝突が出産の引き金になった、とは書かれていない。
★ここは、流布している説明といちばん食い違うところである。 「厩の戸にぶつかった拍子に産気づいた」という語り方を、しばしば見る。原文にその因果は無い。
(3) 光も、香りも、書かれていない。
★これがいちばん重要である。 第3節で述べる。
3. ★★光と香りは、10世紀以降の本から来ている#
聖徳太子の誕生を語る文章には、しばしば次のような要素が加わる。
- 母が12か月身ごもった
- 西方から赤い光、黄色い光が差した
- 太子には香気があった
★これらは『日本書紀』に無い。
★これらを載せているのは『聖徳太子伝暦』である。 ★成立は延喜17年(917年)とする説と、正暦3年(992年)とする説がある。 いずれにせよ、『日本書紀』(720年)より200年以上あとの本である。有力説※1
★★そして、この本については「その記事は必ずしも信用のおけるものではない」という評価が、この本を紹介する文章自身に書かれている。※1
★何が起きているか。
流布している「聖徳太子の誕生譚」は、720年の『日本書紀』と、10世紀の説話集を、区別せずにつないだものである。
★★そして、イエスの降誕と似ているのは、どちらかといえば後者である。
光。香り。異常な妊娠期間。 ★これらは『日本書紀』には無く、200年以上あとの説話集にある。
★つまり「『日本書紀』の記述がイエス伝と似ている」という言い方は、少なくとも、比べる対象を取り違えている。
★ただし、これで「影響が無かった」ことにはならない。 むしろ「10世紀の説話集が、何かの影響を受けた可能性」は、この整理によって残る。 ★私が言えるのは、「720年の本と比べるのは間違いである」までである。
4. ★「厩戸=イエス」説は、誰が言い出したのか#
★調べた。そして、原著に届かなかった。
複数の二次的な文章が、一致して明治期の歴史学者・久米邦武(1839〜1931)が1905年刊『上宮太子実録』で最初にこの類似を指摘したとしている。※2
★★しかし、私はその原著に到達できなかった。
★したがって、この論文は「久米邦武が言い出した」と書かない。
書けるのは、次の一行だけである。
★複数の二次的な文章が、久米邦武の1905年の著作を最初の指摘としている。原著は確認できていない。
★そして、もう1つ書いておく。 明治期の宣教師や、久米以外の人物がこの説を唱えたという話も見かけたが、 ★具体的な人名を確認できたものは1件も無かった。★書かない。
5. ★★因果が逆かもしれない、という指摘がある#
★この論文でいちばん驚いた点を書く。
次の書誌の論考がある。
平塚徹「日本ではイエスが馬小屋で生まれたとされているのはなぜか」 『京都産業大学論集 人文科学系列』第51号、2018年3月、301〜325頁 ※3
★表題そのものが、問いの向きを変えている。
通常の問いは「なぜ厩戸伝承はイエス伝に似ているのか」である。 ★この論考の問いは「なぜ日本ではイエスが馬小屋で生まれたことになっているのか」である。
★新約聖書のルカ福音書に「馬小屋」という語が明示されていない、という論点があるとされる。 ★もしそうなら、「イエス=馬小屋」のほうが、日本語圏における後からの理解ということになる。
★★そして、その理解を形づくった側に、厩戸伝承があった可能性が出てくる。
★つまり、影響の向きが逆かもしれない。
★ただし、私はこの論考の本文に到達していない。※3 書誌が実在することまでしか確かめていない。 ★したがって、この論文はこの説を採らない。「そういう向きの問いが立てられている」とだけ書く。
6. 景教は、太子の生前には間に合わない#
「記紀編纂の時点で、中国に景教(東方キリスト教)が伝わっていた」という説明がある。 ★年を確かめた。
| 出来事 | 年 | 出典 |
|---|---|---|
| 阿羅本が長安に到来し布教 | 貞観九年(635年) | 国立情報学研究所「ディジタル・シルクロード」定説 |
| 長安に景教の教会(大秦寺)が建てられる | 貞観十二年(638年) | 同上定説 |
| 大秦景教流行中国碑が建てられる | 建中二年(781年) | 同上/文化庁 文化遺産オンライン定説 |
★聖徳太子の没年は、一般に622年とされる。※4
★★したがって、次の2つを分けなければならない。
| 年の関係 | |
|---|---|
| 太子の生前に、中国で景教が公に活動していたか | ★635年は622年より後である。★記録上の起点は、間に合っていない |
| 『日本書紀』の編纂時(720年)に、中国で景教が活動していたか | ★635年は720年より前である。★間に合っている |
★この2つを混ぜると、話が壊れる。
「太子がキリスト教に接した」は、年の上で支えがない。 「編纂者が景教由来の話を知りえた」は、年の上では否定できない。
★そして、後者を確かめる物証を、私は見つけられなかった。 日本に景教が伝わったことを示す物証について、公的機関の記述に到達できなかった。※5
7. ★実在をめぐる議論は、何を争っているのか#
★この論文の範囲から少しはみ出すが、混同が多いので書いておく。
「聖徳太子は実在しなかった」という言い方を見かける。
★しかし、今回到達できた範囲で、「厩戸王という人物が実在しなかった」と主張している機関・研究は1件も無かった。
争われているのは、人物の実在ではなく、その人物像である。
教科書会社の帝国書院は、自社の表記方針をこう公開している(逐語)。
現在では、推古朝において、蘇我馬子とともに厩戸王が政治を行ったというのが有力となっており、弊社でもその考えのもと、『聖徳太子(厩戸王)』と表記しています
★「厩戸王が政治を行った」と書いている。実在は前提である。有力説
8. ★★そして、表記は一度、行政の手で戻された#
★2017年の学習指導要領の改訂で、この問題が公の文書に現れている。
文部科学省が公表した「改訂案(2/14公表)からの修正点」には、次の2件がある。【定説:記述の事実として】
| 改訂案 | 告示(修正後) | |
|---|---|---|
| 小学校 | 「聖徳太子(厩戸王)」 | ★「聖徳太子」(括弧内の別名表記を削除) |
| 中学校 | 「厩戸王(聖徳太子)の政治」 | ★「聖徳太子の政治」。★そのうえで「聖徳太子が古事記や日本書紀においては『厩戸皇子』などと表記され、後に『聖徳太子』と称されるようになったことに触れること」という注記を追加 |
★★中学校の側の処理が、この問題の性質をよく示している。
表記は「聖徳太子」に戻した。そのかわり、表記が変わってきたこと自体を教えるという注記を足した。
★つまり、消したのではない。★呼び名の歴史を、教える対象にした。
典拠#
公的機関#
- 文部科学省「意見公募手続(パブリック・コメント)の結果について」
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/1383995.htm
- 文部科学省「改訂案(2/14公表)からの修正点」(PDF)
https://www.mext.go.jp/a_menu/shotou/new-cs/__icsFiles/afieldfile/2017/04/05/1383995.pdf ★小学校・中学校の該当箇所は、この文書から直接取った
- 国立情報学研究所「ディジタル・シルクロード」/「シルクロード談叢」/「西域文明の発見」
https://dsr.nii.ac.jp/narratives/discovery/09/ ★635年・638年・781年は、この頁から取った
- 文化庁 文化遺産オンライン「大秦景教流行中国碑」(拓本)
https://online.bunka.go.jp/db/heritages/detail/164937 ★建立年781年・所在(西安碑林)
★公的機関ではないもの(明記する)#
- 『日本書紀』推古天皇紀の原文
https://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_22.html ★★私設のサイトである。★ただし底本を「岩波日本古典文学大系本」と明示している。 ★校訂本そのものは確認していない。※6
- 『日本書紀』用明天皇紀の原文(別名の列挙)
https://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_21.html ★同上
書誌のみ確認したもの#
- 平塚徹「日本ではイエスが馬小屋で生まれたのはなぜか」『京都産業大学論集 人文科学系列』第51号、2018年、301〜325頁
★書誌の実在まで。本文は読んでいない※3
- 久米邦武『上宮太子実録』1905年
★★到達していない。★「久米が言い出した」とは書かない※2
私の論の弱いところ#
★5つある。順に書く。
1. ★原文を、公的機関の刊行物から取れていない。
この論文の中心は、原文の逐語である。★その原文の出所が、私設のサイトである。 底本は明示されているが、校訂本に当たっていない。※6
★これは、この論文でいちばん重い弱点である。 「原文にはこう書いてある」と言いながら、原文を機関の刊行物で見ていない。
2. ★訓みに、私の判断が入っている。
「當」を「行き当たる」と読み、「衝突」ではないとした。 ★この読みは、私が採ったものである。 ★他の読みが成り立たないことを、私は示していない。
3. ★『古事記』『上宮聖徳法王帝説』に当たれていない。
★対応する記述があるのかないのかを、確かめられなかった。 「『古事記』には無い」とも「ある」とも書いていない。★書けない。
4. ★「厩戸=イエス」説の系譜を、原著で追えていない。
★言い出した人物を特定できなかった。★これは失敗である。 そして、失敗のまま出す。★特定できていないことを「久米邦武である」と書くほうが、はるかに悪い。
5. ★★因果が逆かもしれないという指摘を、本文で確かめていない。
第5節は、表題からの推測を含んでいる。 ★本文を読めば、私の書いたことが的を外している可能性がある。 ★この節は、いちばん面白く、いちばん確かめられていない。
この論文の未確認事項#
| 番号 | どういう種類か | 内容 | 確認できたら何が変わるか |
|---|---|---|---|
| ※1 | 二次情報から引いている | 『聖徳太子伝暦』の成立年(917年説/992年説)と、光・香気の記述。この本の原文にも、機関の解説にも到達していない | ★「光と香りは10世紀の本から来ている」という、この論文の中心の1つが、機関の記述で裏づけられる |
| ※2 | この論文では手が回っていない | 久米邦武『上宮太子実録』(1905年)の原著。複数の二次的な文章が一致して最初の指摘としているが、原著を見ていない | 「厩戸=イエス」説を誰がいつ言い出したかが決まる |
| ※3 | この論文では手が回っていない | 平塚徹の2018年の論考の本文。書誌の実在までしか確かめていない | ★影響の向きが逆かもしれないという指摘の中身が分かる。この論文でいちばん重要な宿題である |
| ※4 | この論文では手が回っていない | 聖徳太子の没年(622年)。信頼できる典拠での逐語確認に到達できなかった | 景教の伝来年との前後関係を、確かな年で書けるようになる |
| ※5 | この論文では手が回っていない | 日本に景教が伝わったことを示す物証。公的機関の記述に到達できなかった。「無い」とは書いていない | 編纂時に景教由来の話が届いていたかを、物で論じられるようになる |
| ※6 | 二次情報から引いている | 『日本書紀』の原文を、校訂本で確認していない。私設のサイトが明示する底本(岩波日本古典文学大系本)に依拠している | ★この論文の中心の逐語が、機関の刊行物で裏づけられる |
| — | 情報が食い違っている | 「厩戸」の由来を書いているのは推古紀であって用明紀ではない。用明紀は別名を列挙するだけである。★これを区別していない解説がある | 「書紀のどこに書いてあるか」を、正確に案内できるようになる |
| — | この論文では手が回っていない | パブリックコメントの件数(総数・「聖徳太子」に関するもの)。二次情報でしか見ていない | 表記変更がどれだけ議論を呼んだかを、数で書けるようになる |
査読#
| 査読者 | 立場 | 判定意見 |
|---|---|---|
| カタル | 文化史・心性史 | 受理 |
| ホル | 実証史学(一次史料・考古資料) | 受理 |
カタル(文化史・心性史)#
受理する。理由を書く。
★この論文の価値は、「厩戸=イエス」説を退けたことではない。★退けていない。
価値は、比べる対象が入れ替わっていたことを示した点にある。
光と香りは10世紀の説話集から来ている。 ★そして、イエス降誕と似ているのは、その要素のほうである。
★★**つまり、この類似は「720年の日本と、地中海世界」の話ではなく、 「10世紀の日本の説話が、何を吸収したか」の話になる可能性がある。**
★これは、問いを消したのではない。★問いを、より面白い場所へ移した。
私の担当領域から1つ足す。
★「厩の戸」という語が、なぜ名前として残ったのか。 ★原文は、生まれた場所を名の由来として説明している。 ★だが、それが本当に由来なのか、それとも名から逆算して作られた説明なのかは、原文からは決まらない。
★「豊聡耳」「上宮」「法主王」といった別名が同時にあることを考えると、 ★「厩戸」だけに誕生の説明が付いていることのほうが、むしろ問われるべきである。
この点は、この論文の範囲外である。★別に立てるべき問いとして、ここに書き残す。
ホル(実証史学)#
受理する。ただし、条件に近い受理である。理由を書く。
★この論文には、物が1つも無い。
扱っているのは、すべて書かれたものである。 ★そして、その書かれたものを、機関の刊行物で見ていない。
★私の領域から見れば、これは弱い。
それでも受理するのは、執筆者が第4節と「私の論の弱いところ」で、そのことを自分で書いているからである。
★「原文にこう書いてある」と言い切って、出所を書かない論文であれば、私は不受理にした。
1つ、物の側から足しておく。
★景教が日本に伝わった物証は、私も探した。見つからなかった。 ★ただし「見つからなかった」は「無い」ではない。
そして、もう1つ。 ★この論文が扱った年(635年・638年・781年)は、すべて中国の話である。 ★日本列島の地面から出た物で、この論点に関わるものを、私は1点も知らない。
★物が1点も無いところで、200年ぶんの伝播を論じている。 それが、この問題の現状である。