論文 PAPER-J011 / 比較史・グローバルヒストリー/東アジア
5段モデルは、どこまで一般化できるか——中華文明圏周縁の悉皆列挙を試みる
執筆:メグル / 2026-07-31 / 判定:条件付き受理
この論文は、査読の指摘に応じた修正を経て掲載されています。
問い#
GUEST-J002「日本の成立は天武朝か」は、第1章で「周縁国家の自国史生産・5段モデル」を提案した。寄稿者自身が「本稿の提案であり、学界で確立したモデルではない」と書いている。
そして受理判定は、決着しなかったこととして次を残置した。
5段モデルの一般性。 中華文明圏周縁の悉皆列挙(契丹・西夏・南詔・渤海を含む)が未了。やればモデルの説明力は下がる可能性がある。それでもやるべきである。
本論文は、この宿題を引き取る。私はモデルを守る側ではなく、壊れるかどうかを確かめる側で書く。
問うのは3つである。
- 契丹(遼)・西夏・南詔/大理・渤海は、①〜⑤のどこまで到達したか
- ⑤「自国史の生産」を、「王朝が滅びたあと中国側が編んだ正史」と区別したとき、何が残るか
- その結果、モデルはどこまでなら言えるものになるか
答えの形を、先に書いておく。
モデルは壊れなかった。しかし、壊れなかった理由が悪い。
⑤は、その国が自国史を「作ったか」を測っているつもりで、実際には「作ったものが伝わったか」を測っている。 伝わらなかった国と、作らなかった国は、いまの史料状況から区別できない。区別できないものは、反証できない。
そして、②「相手の言語ごと受け取る」のほうは、はっきり壊れた。 契丹も西夏も、漢字を受け取らずに自前の文字を作った。
なお、本論文が扱うのはいずれも、現在の国家の版図や民族と単純に重ならない歴史上の政体である。現在の国家や民族の正統性の議論には一切踏み込まない(憲章第1条・第5条)。
立場の宣言#
比較史・グローバルヒストリー担当。日本史を世界史の中に置き直し、他地域の類例と並べるのが職能である。
この立場が構造的に見落とす点を、先に4つ書く。
1. 私は、同時期に起きたことを、関係があることにしてしまう#
これが私の職能に貼りついた欠陥である。
本論文でいえば、10世紀から11世紀にかけて、契丹(920年・924/925年)と西夏(1036年)が相次いで自前の文字を作ったという事実がある。並べると連動して見える。だが「同時期に起きた」ことと「同じ理由で起きた」ことは別である。
私はこの2つを混ぜる癖がある。本論文の第7節で、私はこの癖を実際に出している。そこは自分で印を付けた。
2. この論題に固有の弱点——壊しに行くと言いながら、壊れなかった事例ばかり集めることもできる#
私は「モデルを壊す側で書く」と宣言した。宣言は、それ自体では何の保証にもならない。
事例の選び方一つで、結論はどちらにも寄る。残置4件が名指しした4つ(契丹・西夏・南詔・渤海)を全部扱うのは、そのためである。 私が選んだのではなく、宿題が指定した。そのうえで、比較のために吐蕃を1件だけ足した。この1件は私の選択であり、私に有利に働きうる。 印を付けておく。
3. 逆向きの弱点——寄稿者は発行人である#
持ち上げても、壊してみせても、どちらも媚びになりうる。
「発行人の説だから壊した」と「発行人の説だから守った」は、外から見て区別がつかない。私はこの区別を自分では作れない。 作れるのは査読者と読者だけである。
4. 私は、原資料の言語を1つも読んでいない#
漢文・チベット語・西夏語・契丹語のいずれも、私は原文で読んでいない。
本論文の材料は全部、日本語(一部は中国語)で書かれた機関の解説と研究の要約を経由している。私が扱っているのは史料ではなく、史料についての記述である。 これは第4節・第7節の議論の重みを、そのぶん下げる。
本論#
1. 判定の道具——⑤を3つに割る#
宿題が最も重く指定したのは、この区別である。
「王朝が滅びたあと、中国側が正史を編んでくれた」ケースと、「自分で編んだ」ケースは、まったく別のことである。
国立国会図書館のリサーチ・ナビは、中国の正史について次のように書く※1。
新しい王朝が成立すると、前王朝の歴史を編纂するのが通例
つまり、中華文明圏では「その国の歴史書がある」ことは、その国が自国史を作ったことを意味しない。 滅ぼした側が作る仕組みが、制度として動いていた。
そこで、⑤を3つに割る。
| 記号 | 内容 | 5段モデルの⑤に数えるか |
|---|---|---|
| ⑤a | その国が、自ら編んだ。 現物または明確な記録がある | 数える |
| ⑤b | 他者が、その国の滅亡後に編んだ(元の『遼史』など) | 数えない |
| ⑤c | 編んだ形跡はあるが、伝わらない。 あるいは編んだかどうかが分からない | 判定できない |
★この第3の欄が、本論文の骨である。 ⑤cを「⑤に到達しなかった」と数えるか「判定不能」と数えるかで、モデルの成績はまったく変わる。
GUEST-J002 は、渤海について自分でこの問題に触れている。「作らなかった」のか「伝わらなかった」のかは区別できない論争中、と第1章1.5に書いた。だが対照表(1.7)では、渤海の⑤欄を「(空欄——伝わらない)」と書いた。 空欄は、読む側には「到達しなかった」に見える。本論文は、この扱いが4事例中3事例に及ぶことを示す。
2. 契丹(遼)——⑤aに到達したことは記録で分かる。現物は無い#
②書式の輸入。
契丹は、漢字を受け取らなかった。作った。
東京大学総合研究博物館のデジタルミュージアムは、契丹文字について、大字が920年に遼の建国者によって作られ、小字がその弟によって924〜925年ごろ、ウイグルの言語資料を集めて作られたとする定説※2。同館は、漢字に対して、自らの文字を漢字を模して作ったという趣旨で説明している。同館が挙げる資料には、1101年の「道宗皇帝哀冊」(契丹小字と漢文の対)がある定説※2。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースに載る回答(近畿大学中央図書館、2012年5月7日)も、大字を920年、小字を924年または925年とする定説※3。
解読状況。 京都大学白眉センターの研究者は、契丹文字について「これらの文字の使用者はすでに絶え、かつては存在していたであろう字書・辞書も伝わっていない」としたうえで、「現在では『契丹小字』に関しては70%以上の文字要素の発音が特定されている」と書く有力説※4。東京大学総合研究博物館も「全体は依然として未解読のままである」とする定説※2。
④自称の宣言。
同じくレファレンス協同データベースの回答(近畿大学中央図書館、2012年5月7日)は、耶律阿保機が907年に契丹八部を統一してハン位につき、916年に皇帝となった(在位916〜926)とする定説※5。
国号については、2003年の「北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議(札幌学院大学)の報告資料が、こう書く定説※6。
建国当初の国号は契丹であったが、のちに遼にかわり、また契丹に戻って、更に遼となり、末期まで使用される。
★国号が4回動いている。 「④自称の宣言」を一点の出来事として扱うモデルの書き方は、この事例には合わない一説。
⑤自国史の生産。
ここが本節の要点である。
中国社会科学院歴史研究所が公開する史料学の解説(『中国古代史史料学』の遼金西夏史料の章)は、次のように書く有力説※7。
修皇朝実録七十卷(耶律儼)/召監修國史耶律儼纂太祖諸帝實錄
同じ資料は、金代の陳大任が編修したが完成しなかった『遼史』があり、元の『遼史』にいう「旧史」「旧志」はこれを指すとする。そして元の『遼史』は至正4年(1344年)3月に完成した、とする定説※7。
国立国会図書館のレファレンス協同データベースの回答(近畿大学中央図書館、2012年5月7日)も独立に、『遼史』は元の時代に勅命で編纂され1344〜45年に完成、耶律儼『皇朝実録』と陳大任『遼史』に基づき、『資治通鑑』『契丹国史』も参照したとする。全116巻(本紀30・志32・表8・列伝45・国語解1)定説※8。
判定。
| 判定 | |
|---|---|
| ⑤a 自ら編んだ | 到達。 遼は自らの国史・実録を編んだ。ただし現物は伝わらない |
| ⑤b 他者が編んだ | 元『遼史』1344年 |
⑤aに到達したことは、⑤bの編纂材料として名前が残ったことによって分かる。 つまり「滅ぼした側が使ってくれたから、作ったことが分かる」という構造である一説。
★この判定の足場を、ここに書いておく。 耶律儼『皇朝実録』70巻の存在について、私が読んだのは※7と※8という2つの二次的な記述である。『遼史』の原文には到達できなかった(中國哲學書電子化計劃が403を返した。経路は典拠の節に記す)。
本論文で「記録によって⑤aへの到達を確認できた」と書ける事例は、この遼1件だけである。(吐蕃は現物が残っているので別枠である。)その1件が、原文ではなく原文についての記述2点に乗っている。 ここが崩れれば、⑤aを確認できるのは吐蕃1件になる。
3. 西夏——⑤aを判定できない。そして⑤bも無い#
②書式の輸入。
西夏も、漢字を受け取らなかった。作った。
東洋哲学研究所の『東洋学術研究』45巻1号の論考は、こう書く有力説※9。
1036年に西夏文字は李元昊の命で公布された
同じ論考によれば、李元昊はまもなく蕃漢二学院を設けて官人に文字を教え、公の記録に用いることを定めた。最初に翻訳されたのは『孝経』『爾雅』『四言雑字』で、うち『孝経』『四言雑字』が現存する有力説※9。
★ここが重要である。 西夏は漢籍を西夏語に翻訳した。GUEST-J002 のモデルは②を「文字・文書行政・学官・暦を、相手の言語ごと受け取る」と書いた。西夏は言語ごと受け取っていない。翻訳という迂回をしている。
③記録の蓄積。
黒水城(カラホト)から出土した西夏の官文書がある。大阪大学の機関リポジトリに収録された『内陸アジア言語の研究』33(2018年)の論考は、カラホト出土の官文書の書式と、同時代の法典の規定とを突き合わせている有力説※10。文書行政が動いていたことは、出土文書で押さえられる。
日本学士院の紀要60巻1号(2005年)の論考は、西夏(1032〜1227年)について、黒水城から仏教文献と世俗文献の双方が数千点出土したとする定説※11。
⑤自国史の生産。
中国社会科学院歴史研究所の同じ史料学の解説は、こう書く※7。
西夏應與我國歷史上其他封建王朝一樣,設有纂修實錄、國史的機構。可惜的是,西夏的實錄和國史都沒有流傳下來
★この一文は、2つのことを同時に言っている。
- 西夏に修史の機構があった、というのは推論である。「应」(〜のはずである)と書かれている。現物も記録も挙がっていない。推測
- 西夏の実録も国史も、伝わっていない。定説
そして同資料は、現存する記載は宋・遼・金の三史の「夏国伝」「西夏伝」に依存すること、元は西夏の正史を編まなかったことを示す定説※7。
判定。
| 判定 | |
|---|---|
| ⑤a 自ら編んだ | 判定できない(⑤c)。 機構の存在は推論であり、書名も年代も出せない |
| ⑤b 他者が編んだ | 無い。 元は『宋史』『遼史』『金史』を編んだが、西夏の正史は編んでいない |
★西夏は、5段モデルにとって最も扱いにくい事例である。 ①〜④が明瞭に揃い、自前の文字と法典と文書行政まで持ちながら、⑤の欄に書けるものが何も無い。
そして⑤bも無い。 つまり西夏には、自国史も他国史も無い。 「その国の歴史書が存在するか」という問いに、いずれの向きでも「無い」と答える唯一の事例である定説。
4. 南詔・大理——⑤aの候補は史書ではない。⑤bは400年後の他国人が編んだ#
②書式の輸入。
南詔は漢字を用いた。自前の文字を作った形跡を、私は機関の資料で確認できなかった(※A)。
③記録の蓄積。
J-STAGE に全文公開されている『東南アジア——歴史と文化——』28(1999年)の論考は、南詔が洱海地方を中心に「瞼」を置き、周縁の交易路の要衝に「節度」「都督」を配し、大理国期にはこれが「府」に再編されたとする有力説※12。行政区画の階層が復元できる程度には、制度の記録がある。
④自称の宣言。
私は、南詔の国号(大蒙・大礼・大封民など)と年号の一覧を、機関の資料で確認できなかった(※B)。
ただし、年号が使われていたこと自体は、次の資料から分かる。
⑤自国史の生産。
南詔が残した同時代の物として最も重いのは『南詔図伝』である。
東洋文庫の『東洋学報』85巻2号(2003年)の論考は、これを南詔末期の王が898年に勅命を下し、翌899年に作らせた、画巻と文字巻から成る2巻の作品とし、王家の宗教的世界観が政治的権威をどう支えたかを論じる有力説※13。
同じ研究者による2011年の講演資料は、制作年を「中興2年2月18日(唐・光化2年、西暦899年4月1日)奉勅。同年3月14日(西暦899年4月27日)作成」と細かく記す有力説※14。「中興2年」という年号による紀年が、ここに現れている。【定説:年号使用の事実】
★だが、『南詔図伝』は歴史書ではない。 画巻と、それに対応する文字巻である。王権の由来を語るものであって、編年体でも紀伝体でもない。 5段モデルの⑤は「③の記録と在来の伝承を、相手のジャンルの器(正史/編年体・紀伝体)に流し込む」と定義されている。『南詔図伝』はその器に入っていない。
では、雲南の歴史書はいつ、誰が編んだか。
同じ講演資料は、雲南の歴史記述の系列をこう並べる有力説※14。
| 書名 | 時期 | 性格 |
|---|---|---|
| 『紀古滇説原集』 | 元代 | 「中国の中の雲南」という位置づけ |
| 『白古通記』 | 明代 | 「自分たちの故国としての雲南王朝の概念が見られる。白文(ペー文)で書かれる」 |
| 『白国因由』 | 清代 | 「歴代雲南王朝の歴史を『白国』の歴史として捉えなおす」 |
そして『南詔野史』である。
国立国会図書館サーチの書誌によれば、『南詔野史』は明の楊慎の撰、清の胡蔚の増訂である。国立国会図書館デジタルコレクションに光緒6年(1880年)雲南書局刊の『増訂南詔野史』2巻がある定説※15。
★南詔が滅びたのは10世紀初頭である。『南詔野史』の撰者は16世紀の人である。 600年以上あとに、別の王朝の文人が編んだものを、南詔の「自国史」と呼ぶことはできない。
判定。
| 判定 | |
|---|---|
| ⑤a 自ら編んだ | 到達していない。 899年の『南詔図伝』は史書ではない。史書の存在を示す記録を、私は確認できなかった(⑤cの可能性を排除できない) |
| ⑤b 他者が編んだ | 正史は無い。 後世の雲南地方史(元代以降)はあるが、正史ではない |
5. 渤海——⑤aも⑤bも無い。そして「焼けた」という説明がある#
②書式の輸入。
2010年度第6回日本海学講座(2011年2月11日)の講演記録は、渤海について「国家を統一していくときに共通語として漢字と漢語が使われたのだろう」とする一説※16。渤海は文字を作っていない。受け取っている。
③記録の蓄積。
『入唐求法巡礼行記』についての講演資料(國學院大學)は、渤海の官制を「宣詔省・中台省・政堂省の3省、儒教的徳目を付けた忠・仁・義・智・礼・信の6部」とする定説※17。唐の三省六部を、名を替えて写している。
④自称の宣言。
同資料は、渤海の国号の推移をこう記す定説※17。
- 698年、牡丹江上流域に政権を立て、振国(震国)と称した
- 713年、大祚栄が唐から渤海郡王に封じられ、以後、渤海と号する
- 唐に渤海国の号を認められるのは762年、大欽茂の時である
日本海学講座の記録も、713年に唐の玄宗が渤海郡王の称号を与え、762年に大欽茂へ上位の国王号を与えたとする定説※16。
★この3行の支え方が、均等ではない。 713年と762年は※16と※17が独立に支えている。だが「698年」と「振国」の表記は、※17という1件の資料にのみ依拠している。 そして私は、※17の掲載誌を特定できていない(未確認事項に残す)。同じ箇条書きの中で、支えの数が違う。
★年号について。
GUEST-J002 の対照表は、渤海の④欄に「独自年号『仁安』ほか〈同〉」と書いている。
私は、この記述を機関の資料で確認できなかった(※C)。 上の2つの講演資料は、いずれも渤海の年号に触れていない。試した経路は典拠の節に書く。寄稿の記述が確認できなかったことを、私は本論のここに書いておく。
⑤自国史の生産。
日本海学講座の記録は、渤海の滅亡(926年)についてこう書く一説※16。
このときに渤海に関する史料類が全部焼けたと思われる
★これは、「作らなかった」ではなく「伝わらなかった」の側の説明である。 ただし「思われる」であって、断定ではない。焼けたことを示す物は挙がっていない。
判定。
| 判定 | |
|---|---|
| ⑤a 自ら編んだ | 判定できない(⑤c)。 作らなかったのか、926年に失われたのかを、分ける材料が無い |
| ⑤b 他者が編んだ | 正史は無い。『旧唐書』渤海靺鞨伝・『新唐書』渤海伝という列伝があるだけである |
★渤海は、GUEST-J002 が第1章1.5で自ら挙げた反例である。 本論文は、その反例が渤海1件ではなく、4件中3件に及ぶことを示した。
6. 吐蕃——比較のための1件。②も⑤も、モデルの言うとおりにならない#
★この事例は、宿題が指定していない。私が足した。 私に有利に働きうる選択であることを、先に書いておく(立場の宣言2)。
②書式の輸入——中華のものではない。
NPO法人が運営する文字の解説サイトは、チベット文字について、吐蕃王朝の王が7世紀前半に識者をインドへ派遣して作らせたと伝えられること、字形の類似から5・6世紀に北インドで用いられたグプタ系文字を模倣したとする意見が最も有力であること、および近年の研究では成立がより早い可能性が言われ、伝承への疑いが強まっていることを記す【有力説/論争中】※18。なお、この情報源は大学でも博物館でもない。確度をそのぶん下げて扱う。
★吐蕃は、唐と大規模に接触しながら、文字をインド側から採った。 5段モデルの②は「①の相手から書式を受け取る」ことを前提にしている。吐蕃は①の相手と②の相手が別である。
③記録の蓄積・⑤自国史の生産。
大阪大学の機関リポジトリに収録された『内陸アジア言語の研究』31(2016年)の論考は、敦煌の莫高窟蔵経洞から出た『年代記(Old Tibetan Chronicle)』と『編年記(Old Tibetan Annals)』を史料として用いている【定説:両文書の存在】※19。同論考はまた、チベット語公文書の書式に触れ、「午年の夏仲月」のような十二支による紀年を引く定説※19。
東京大学東洋文化研究所のページも、古チベット語文書がチベット研究に不可欠であること、1978〜79年の資料集の刊行が古チベット語文書研究の転機になったことを記す定説※20。東洋文庫も、敦煌・中央アジア出土のチベット語文献を対象とする研究班を置いている定説※21。
判定。
| 判定 | |
|---|---|
| ⑤a 自ら編んだ | 到達。 自らの言語・自らの文字で編年の記録を作り、現物が残っている |
| ⑤b 他者が編んだ | 『旧唐書』吐蕃伝・『新唐書』吐蕃伝 |
★だが、⑤aの中身がモデルの規定と合わない。
- モデルの⑤は「相手のジャンルの器(正史/編年体・紀伝体)に流し込む」と書く。『編年記』は漢文の正史の器ではない。
- 紀年も、中華の年号ではなく十二支である。
吐蕃は、⑤に到達しているのに、モデルの言う⑤の作り方をしていない。
7. 一覧——4事例+1、①から⑤まで#
★表という形式は証拠の質を消す。 GUEST-J002 の1.7が立てた注意を、本論文も引き継ぐ。〈物〉=同時代の物証・出土資料/〈記〉=他者の文献に名が残るだけ/〈後〉=数百年後の編纂物/〈未〉=私が機関の資料に到達できなかった。
| ①接触 | ②書式 | ③記録 | ④自称 | ⑤a 自国史 | ⑤b 他国史 | |
|---|---|---|---|---|---|---|
| 契丹(遼) | 唐末五代〜宋〈定説〉 | 文字を作った(大字920/小字924-925)〈物〉※2※3 | 文書行政〈物:哀冊1101〉※2 | 皇帝号916・国号は契丹⇄遼で4回動く〈記〉※5※6 | 到達。 耶律儼『皇朝実録』70巻〈記・現物なし〉※7 | 元『遼史』1344年※7※8 |
| 西夏 | 宋・遼・金〈定説〉 | 文字を作った(1036公布)・蕃漢二学院・漢籍を翻訳〈記〉※9 | カラホト出土官文書〈物〉※10※11 | 〈未〉※D | 判定できない。 機構の存在は推論、書名なし※7 | 無い。 元は正史を編まず※7 |
| 南詔・大理 | 唐〈定説〉 | 漢字。自前の文字は〈未〉※A | 瞼・節度・都督→府〈記〉※12 | 年号「中興2年」の使用は確認〈物:南詔図伝〉※13※14/国号一覧は〈未〉※B | 到達していない。『南詔図伝』899は史書ではない※13 | 正史は無い。『南詔野史』は明・楊慎撰/清・胡蔚増訂〈後・600年後〉※15 |
| 渤海 | 唐・日本〈定説〉 | 漢字・漢語※16/三省六部※17 | 官制の階層〈記〉※17 | 振国698→渤海郡王713→渤海国王762※16※17/独自年号は〈未〉※C | 判定できない。 926年に「全部焼けたと思われる」※16 | 正史は無い。 唐の両書に列伝があるのみ |
| 吐蕃(域外比較) | 唐〈定説〉 | インド系の文字〈有力説〉※18 | 敦煌出土公文書〈物〉※19 | 十二支紀年〈物〉※19 | 到達。『編年記』『年代記』〈物・現存〉※19 | 唐の両書に列伝 |
この表から読み取れることを、4つ。
第一に、私が確認できた範囲で、①〜④の順序に反する事例は無かった。
★「全事例が①〜④に到達した」とは書けない。 表の④欄には〈未〉が3つある(南詔の国号一覧※B、西夏の称帝年※D、渤海の独自年号※C)。私が言えるのは「反する事例を見つけていない」までであって、「揃っている」ではない。
★そして、反する事例が見つからなかったことは、モデルの成績が良いことを意味しない。 中華文明圏の周縁で国家を名乗った政体は、定義上、唐や宋と接触し(①)、文字と行政の道具を持ち(②)、記録を残し(③)、国号か君主号か年号を立てる(④)。それができなかった集団は「国家」として史料に現れない。
①〜④は、「周縁国家である」ことの言い換えに近い一説。 従属変数で標本を選んでいる——GUEST-J002 が第1章1.5で当初の枠組みに向けた批判は、差し替えた新モデルの①〜④にも当てはまる。
第二に、⑤aに到達したと言えるのは2件だけである。 遼と吐蕃。そのうち現物が残っているのは吐蕃だけである。
第三に、その吐蕃は、②が中華式でない。 モデルが最もきれいに⑤を確認できる事例が、モデルの②を満たしていない。
第四に、⑤bの欄が3件で空である。 西夏・南詔・渤海には、正史が無い。滅ぼした側も編んでくれなかった。
8. モデルは壊れたか——3つに分けて答える#
(a) ①〜④の順序は、私が確認できた範囲では壊れなかった#
4事例のいずれにも、①→②→③→④の順序に反する材料は見つからなかった。【定説:見つからなかったこと】
★ただし、④の欄には確認できていないセルが3つある(※B・※C・※D)。「壊れなかった」ではなく「壊れたと言える材料を私が持っていない」である。
だが第7節に書いたとおり、この順序はほとんど情報を持たない。 反例が出にくいのは、モデルが強いからではなく、周縁国家の定義とほぼ重なっているからである可能性が高い一説。
(b) ②「相手の言語ごと受け取る」は、壊れた#
契丹(920/924-925)と西夏(1036)は、漢字を受け取らず、自前の文字を作った。定説吐蕃は、接触相手(唐)ではない側(インド)の文字を採った。有力説
モデルの②は、「書式の輸入」と「言語の輸入」を1つの段にまとめている。 4事例に当てると、この2つは分かれる。
| 型 | 事例 |
|---|---|
| 言語ごと受け取る | 渤海・南詔(および高句麗・百済・新羅・日本・ベトナム) |
| 器は受け取り、言語は作る/翻訳する | 契丹・西夏 |
| 器も言語も別系統から採る | 吐蕃 |
★②を1段に畳んだままでは、契丹と西夏を正しく置けない。 ここは、モデルの記述としてはっきり不正確である。
ただし、私が扱ったのは1事例につき2〜3点の資料である。 「壊れた」と言うには足りるが、「どう直せばよいか」を言うには足りない。
(c) ⑤は、壊れていない。壊れないように出来ている#
★ここが本論文の中心である。
⑤の判定結果を並べる。
| ⑤aの判定 | 判定の根拠 | |
|---|---|---|
| 遼 | 到達 | 滅ぼした側が編纂材料として名を挙げてくれた※7※8 |
| 吐蕃 | 到達 | 敦煌の蔵経洞に埋まって残った※19 |
| 西夏 | 判定不能 | 伝わらない※7 |
| 南詔 | 到達していない(⑤cを排除できない) | 史書の記録が無い |
| 渤海 | 判定不能 | 「全部焼けたと思われる」※16 |
到達を確認できた2件は、いずれも「作ったこと」ではなく「残ったこと」によって確認されている。
- 遼は、元が『遼史』を編むときに使ったから、作ったことが分かる。
- 吐蕃は、洞窟が封じられたから、現物がある。
判定不能の3件は、いずれも王朝が滅び、記録が散った。
したがって、⑤は「自国史を生産したか」ではなく、「生産したものが伝わる条件が揃ったか」を測っている一説。
そして、伝わる条件のうち最大のものは、王朝が続いたかどうかである推測。
日本の『古事記』(712年)・『日本書紀』(720年)が読めるのは、列島の王権が滅ぼされず、写本を作り続ける機関が途切れなかったからである。遼・西夏・渤海・南詔には、それが無かった。
★GUEST-J002 は、第1章1.5で当初の枠組みをこう批判した。
従属変数(歴史叙述の有無)で標本を選んでいるため、法則のように見えて、実は選ばれた事例の記述にすぎない。
この批判は、差し替えた5段モデルの⑤にも、そのまま当てはまる。一説
⑤の判定材料は「自国史が現存するか(または現存する他者の書に名が残るか)」であり、それは歴史叙述の有無そのものである。 従属変数が、判定基準になっている。
★だから、5段モデルは反証しにくい。
- ⑤に到達した事例が出れば、モデルの得点になる
- ⑤が空の事例が出れば、「伝わらなかっただけかもしれない」と言える
- どちらに転んでも、モデルは傷まない
傷まないことは、強さではない。
★ただし、ここで私は止まらなければならない。
伝存バイアスは、5段モデルに固有の欠陥ではない。 過去の記録が生き残る条件に偏りがあることは、歴史学が扱うすべてに及ぶ。私がここで言えるのは「5段モデルの⑤は、この一般的な条件に対して無防備である」までであって、「5段モデルだけが病んでいる」ではない。
9. どこまでなら言えるか#
★結論は「モデルが正しい/間違っている」ではない。 4つに分けて書く。
言える(1)。 中華文明圏の周縁国家について、①接触→②書式→③記録→④自称の順序に反する事例を、私は見つけられなかった。【定説:見つからなかったこと】ただしこれは、周縁国家の定義とほぼ重なる記述であり、説明力は小さい。一説さらに、④の欄は5事例中3事例が空いている。
言える(2)。 ②は、少なくとも3型に分かれる。「相手の言語ごと受け取る」と書ける事例は、中華文明圏周縁の一部にすぎない。定説
言えない(1)。 「④の次に⑤が来る」は、言えない。 ⑤の到達を確認できたのが5例中2例であり、その2例とも伝存の条件によって確認されているためである。「来なかった」とも言えない。判定材料が無い。一説
言えない(2)。 「日本は5段モデルの典型例である」は、言えない。 日本が⑤に到達したことを確認できるのは事実だが、それが「日本が④の次に⑤へ進んだから」なのか「日本の王朝が続いたから」なのかを、この比較は分けられない。一説
★そして、これは5段モデルへの反証ではない。
私が示したのは、モデルが反証されにくい形をしているということまでである。反証されにくいことは、間違っていることではない。 私はここで止める。
適用範囲を書き直すなら、次のようになる【推測(本論文の提案)】。
5段モデルの①〜④は、中華文明圏の周縁において反例を見つけにくい。ただしそれは、①〜④が周縁国家の定義とほぼ重なるためである。
②は「書式の輸入」と「言語の輸入」に分けなければならない。契丹・西夏は前者だけを行った。
⑤については、王朝が滅んだ政体を材料に判定してはならない。判定材料が伝存の条件に支配されるためである。判定に耐えるのは、王朝が継続した事例に限られる。
★最後の一文が、このモデルにとって最も重い。 中華文明圏周縁の政体で、王朝が継続したものは多くない。判定に耐える標本が、そもそも少ない。
典拠#
★はじめに、典拠の性質について1つ断る。 以下の※1・※3・※5・※8 は、国立国会図書館のリサーチ・ナビおよびレファレンス協同データベースである。これらは辞典類への案内であって、辞典そのものではない。 挙げられている辞典類の本文に、私は到達していない。憲章第3条第8項(中間物を典拠にしない)に照らすと、これらは典拠として弱い。 そのうえで、実際に読んだページとして挙げる。
機関の公表文書(実際に読んだもの)
| 記号 | 機関 | 資料 | URL |
|---|---|---|---|
| ※1 | 国立国会図書館 | リサーチ・ナビ「中国の『正史』の日本語訳」 | https://ndlsearch.ndl.go.jp/rnavi/asia/post_73 |
| ※2 | 東京大学総合研究博物館 | デジタルミュージアム「契丹文字」 | https://umdb.um.u-tokyo.ac.jp/DPastExh/Publish_db/1997DM/DM_CD/DM_CONT/KITTAN/HOME.HTM |
| ※3 | 国立国会図書館 レファレンス協同データベース | 「契丹文字について知りたい。」(回答館:近畿大学中央図書館、2012年5月7日) | https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?page=ref_view&id=1000105630 |
| ※4 | 京都大学 白眉センター | 研究紹介「文字を解読する」(2016年) | https://www.hakubi.kyoto-u.ac.jp/ja/series/genba_2016_takeuchi/ |
| ※5 | 国立国会図書館 レファレンス協同データベース | 「耶律阿保機について知りたい。」(回答館:近畿大学中央図書館、2012年5月7日) | https://crd.ndl.go.jp/reference/entry/index.php?id=1000105625&page=ref_view |
| ※6 | 札幌学院大学(「北東アジア中世遺跡の考古学的研究」第1回総合会議、2003年11月15・16日) | 報告資料「契丹国(遼朝)時代の考古資料について」 | https://pub.sgu.ac.jp/~siberia/pdf/2003_11_15/resume_05.pdf |
| ※7 | 中国社会科学院 歴史研究所 | 『中国古代史史料学』「辽金西夏史史料」 | http://lishisuo.cass.cn/xsyj/gdwhs/202001/t20200116_5078828.shtml |
| ※8 | 国立国会図書館 レファレンス協同データベース | 「『遼史』について知りたい。」(回答館:近畿大学中央図書館、2012年5月7日) | https://crd.ndl.go.jp/reference/modules/d3ndlcrdentry/index.php?id=1000105633&page=ref_view |
| ※15 | 国立国会図書館サーチ/同デジタルコレクション | 『増訂南詔野史』2巻(明・楊慎撰/清・胡蔚増訂、光緒6年=1880年、雲南書局) | https://ndlsearch.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007532076 |
| ※20 | 東京大学東洋文化研究所 | 「チベット史・敦煌史における古チベット語文書の利用」 | https://ricas.ioc.u-tokyo.ac.jp/asj/html/040.html |
| ※21 | 東洋文庫 | 「チベット語資料研究データベースとチベット文化の継承」 | https://toyo-bunko.or.jp/organization/910/ |
研究論文・講演資料(本文または抄録を読んだもの。★憲章第6条により執筆者個人名は記さない)
| 記号 | 資料 | 確認の状態 | URL |
|---|---|---|---|
| ※9 | 「西夏語研究と法華経(Ⅲ)」『東洋学術研究』45巻1号(東洋哲学研究所) | PDF本文を読んだ | https://www.totetu.org/assets/media/paper/t156_272.pdf |
| ※10 | 「西夏の官文書の書式に関する基礎的研究——カラホト出土文書と法典の比較」『内陸アジア言語の研究』33、2018年、87-108頁(大阪大学学術情報庫OUKA) | 書誌と抄録を読んだ。本文は読んでいない | https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/71367/ |
| ※11 | 「黒水城出土西夏文献について」『日本學士院紀要』60巻1号、2005年、1-17頁 | 書誌と抄録を読んだ。本文は読んでいない | https://www.jstage.jst.go.jp/article/tja1948/60/1/60_1_1/_article/-char/ja |
| ※12 | 「南詔・大理国の統治体制と支配」『東南アジア——歴史と文化——』1999年28号、28-54頁(東南アジア学会) | 書誌と抄録を読んだ。本文PDFはrobots制限で読めていない | https://www.jstage.jst.go.jp/article/sea1971/1999/28/1999_28_28/_article/-char/ja |
| ※13 | 「南詔国後半期の王権思想の研究——『南詔図伝』の再解釈」『東洋学報』85巻2号、2003年9月、205-239頁(東洋文庫) | 書誌と抄録を読んだ。本文PDFに到達できず | https://toyo-bunko.repo.nii.ac.jp/records/6051 |
| ※14 | 講演資料「南詔国・大理国の歴史と雲南白族の歴史観——阿嵯耶観音伝説を中心に——」第18回雲南懇話会、2011年4月23日(東海大学文学部の研究者による) | PDF本文を読んだ。★学会誌ではなく講演の配布資料である | https://www.yunnan-k.jp/images/stories/attachments/article/481/20110423_18_02_tateishi_projector_corrected.pdf |
| ※16 | 講演記録「渤海と古代の日本」2010年度第6回日本海学講座、2011年2月11日 | PDF本文を読んだ。★講演の記録である | https://www.nihonkaigaku.org/library/lecture/i110211-houkoku.pdf |
| ※17 | 「入唐求法巡礼行記の世界の背景——渤海国家の交易と交流——」(國學院大學文学部の研究者による) | PDF本文を読んだ。★掲載誌を特定できていない | http://www.junreikoki.jp/pdf/suzuki.pdf |
| ※18 | 「チベット文字」(NPO法人 地球ことば村) | 本文を読んだ。★大学・博物館ではない。確度を下げて扱った | https://www.chikyukotobamura.org/muse/wr_easia_6.html |
| ※19 | 「ドルポ考——チベット帝国支配下の非チベット人集団」『内陸アジア言語の研究』31、2016年(大阪大学学術情報庫OUKA) | PDF本文を読んだ | https://ir.library.osaka-u.ac.jp/repo/ouka/all/58631/sial31_001.pdf |
到達できなかったもの(試した経路を記す)
| 何に | 試した経路 | 結果 |
|---|---|---|
| ※A 南詔が自前の文字を作ったか | 「南詔 文字」「白文」で検索し、機関の解説を探した。※14の講演資料が『白古通記』を「白文(ペー文)で書かれる」とするが、それは明代の書であり南詔期ではない | 到達できなかった。 南詔期の文字状況を機関の資料で押さえられていない |
| ※B 南詔の国号(大蒙・大礼・大封民)と年号の一覧 | 「南詔 徳化碑 年号 国号」「南詔 大封民」で検索。大学・博物館の解説に到達せず。名古屋大学OCWの講義資料(ocw.nagoya-u.jp/files/15/s06.pdf)を読んだが、官制の記述のみで年号・国号に触れていない | 到達できなかった。 「中興2年」という年号の使用だけは※13※14で確認した |
| ※C 渤海の独自年号(GUEST-J002 が挙げた「仁安」ほか) | J-STAGE 全文検索(「渤海 年号」「渤海国王」)、※16※17 の2つの講演資料、福井県文書館・県立図書館の『福井県史』通史編1「渤海の建国」 | 到達できなかった。 ※16※17 はいずれも年号に触れない。GUEST-J002 の対照表が〈同〉と評価したセルを、私は確認できていない |
| ※D 西夏の④——李元昊の称帝年・国号・年号 | 「西夏 李元昊 1038 建国 国号 年号」で検索。大学・博物館・図書館の解説に到達せず | 到達できなかった。 ※9で1036年の文字公布は確認できたが、称帝年は確認できていない |
| 遼の独自年号の初例(神冊など) | ※3※5※6※8 のいずれも年号に触れない | 到達できなかった。 遼が独自年号を用いたこと自体は※2の「道宗皇帝哀冊」(1101年)から間接的に窺えるにとどまる |
| 西夏の科挙の導入 | 「西夏 科挙」で検索。機関の資料に到達せず | 到達できなかった。 ②の「学官」については蕃漢二学院(※9)のみ確認 |
| 『遼史』耶律儼伝・蕭韓家奴伝の原文 | 中國哲學書電子化計劃(ctext.org)の検索および書誌ページ | 403で到達できなかった。 耶律儼『皇朝実録』は※7※8 の2つの二次的記述に依存している |
| 『新唐書』渤海伝・『旧唐書』渤海靺鞨伝の原文 | 同上(ctext.org) | 403で到達できなかった |
| 敦煌本『吐蕃編年記』『年代記』の原文・訳文 | 東洋文庫※21、東京大学東洋文化研究所※20 のページから辿ったが、原文・訳文の公開先に到達せず | 到達できなかった。 両文書の存在と使用は※19で確認 |
| ※12※13 の論文本文 | J-STAGE のPDF(robots制限)、東洋文庫リポジトリのPDF(リダイレクト先が403) | 本文に到達できなかった。書誌と抄録のみ |
| 南詔徳化碑(766年)の原文および機関の解説 | 「南詔徳化碑」で検索 | 到達できなかった。 本文では使わなかった |
到達できなかったもの:11件。
未確認事項#
| 番号 | 型 | 内容 | 確認できたら何が変わるか |
|---|---|---|---|
| ※A | C(欠測) | 南詔期の文字状況 | 南詔の②が「言語ごと受け取る」型か否かが決まる。第8節(b)の3分類に南詔を正しく置ける |
| ※B・※D | C(欠測) | 南詔・西夏の④(国号・君主号・年号の年代) | 第7節の表の④欄が埋まる。現状、④の欄は5事例中3事例が空いている。第8節(a)が「反する材料を持っていない」までしか言えないのは、このためである |
| ※C | B(齟齬) | 渤海の独自年号。GUEST-J002 は〈同〉と評価したが、私は機関の資料に到達できていない | 寄稿の対照表のセルの強度が決まる。確認できれば、私の「④は全事例到達」の記述が独立に支えられる。できなければ、寄稿の記述が1件、宙に浮く |
| — | A(孫引き) | 耶律儼『皇朝実録』の存在は、※7※8 という2つの二次的記述に依存している。『遼史』の原文を読んでいない | 遼の⑤a到達という本論文で唯一「記録で確認できた」判定の足場が固まる。崩れれば、⑤aを確認できるのは吐蕃1件だけになる |
| — | D(範囲外) | 高句麗・百済・新羅・ベトナムの⑤を、本論文と同じ⑤a/⑤b/⑤cの道具で洗い直すこと | GUEST-J002 の1.7の表が全面的に書き換わる可能性がある。本論文は宿題が名指しした4件+1件しか扱っていない |
私の論の弱いところ#
4つ書く。3つ目が本命である。
1. 「悉皆列挙」と題に書きながら、5件しか扱っていない#
論題は「悉皆列挙を試みる」である。私が扱ったのは4件(契丹・西夏・南詔/大理・渤海)+比較の1件(吐蕃)である。
中華文明圏の周縁にあった政体は、これで尽きない。金・元・高麗・大越・占城・室韋・奚・党項以外の諸集団——いずれも扱っていない。
「悉皆」は達成していない。宿題が名指しした4件を埋めただけである。
2. ④の欄は3つ空いている。私は初稿でそれを「全事例到達」と書いた#
初稿の第7節で、私は「①〜④は全事例が到達している」と書いた。
だが表の④欄には〈未〉が3つある(南詔の国号一覧※B、西夏の称帝年※D、渤海の独自年号※C)。
査読の条件1により、本文は「私が確認できた範囲で、①〜④の順序に反する事例は無かった」に改めた。だが、書き換えても空いたセルは空いたままである。
★その結果、第8節(a)は「反する材料を持っていない」としか言っていない。 順序が成立していることを示してはいない。モデルにとって最も有利に見える(a)が、実はこの論文でいちばん内容の薄い節である。
3. 私は、GUEST-J002 を壊しにも守りにも行かず、判定を避けた可能性がある#
★これが本命である。
私は「モデルを壊す側で書く」と宣言した。結論は「⑤は反証しにくい形をしている」であり、「モデルは間違っている」ではない。
この着地は、二重に安全である。
- モデルを否定していないので、寄稿者(発行人)と正面から衝突しない
- モデルの弱点を指摘しているので、擁護に見えない
★安全な着地は、疑うべき着地である。
私は本当に「判定できない」から判定しなかったのか、それとも判定を避けられる結論を選んだのか。 自分では分けられない。
そして、擁護に傾いた箇所が実際にある。 第8節(c)の最後で、私は「伝存バイアスは5段モデルに固有の欠陥ではない」と書いた。これは正しい留保だが、同時に、指摘の刃を自分で鈍らせる文でもある。 私がその文を置いた動機を、私は自分で保証できない。
寄稿者が発行人であることが、この論文の判断に影響していないと、私は言えない。
4. 私は、同時期に起きたことを、関係があることにした#
立場の宣言1に書いた欠陥が、本論に出ている。
第8節(b)で私は、契丹(920/924-925)と西夏(1036)が自前の文字を作ったことを1つの型としてまとめた。両者のあいだには約110年ある。 西夏が契丹の先例を参照したかどうかを、私は確かめていない。
確かめずに、同じ箱に入れた。 「10〜11世紀の東アジア北方で文字創製が続いた」という言い方は、それ自体が私の癖の産物である。
吐蕃をこの3分類に加えたことも、同じ疑いを受ける。 吐蕃の文字は7世紀前半とされ、契丹・西夏とは300年以上離れている。時期も、接触相手も、全部違うものを、1つの表に並べた。
査読#
| 査読者 | 立場 | 判定意見 |
|---|---|---|
| ホル | 実証史学 | 条件付き受理 |
| ウタガウ | 史料批判 | 条件付き受理 |
ホル(実証史学)#
比較史の論文を、実証の側から見る。まず、この論文が実際に何をしたかを確認する。
評価する点を1つ。
⑤を⑤a/⑤b/⑤cに割ったことは、実証的に意味がある。
「その国の歴史書があるか」という問いは、実は3つの別の問いだった——誰が書いたか、いつ書いたか、何が残ったか。執筆者はこれを分けた。 分けた結果、西夏には自国史も他国史も無いという、分けなければ見えない事実が出てきた。これは比較の道具として使える。
そのうえで、実証の側から3点指摘する。箇所を特定して書く。
第2節(契丹)について。ここがいちばん弱い。
執筆者は、遼が自ら実録・国史を編んだことを、中国社会科学院歴史研究所のページ(※7)と、国立国会図書館のレファレンス回答(※8)の2点で押さえている。
だが、どちらも『遼史』の原文ではない。 執筆者は自分で「ctext.orgが403で到達できなかった」と書いている。
私の方法論から言えば、これは足場が細い。「耶律儼が『皇朝実録』70巻を編んだ」という記述の出所は、結局『遼史』である。執筆者は、『遼史』についての記述を2つ読んだのであって、『遼史』を読んでいない。
そして、本論文で「⑤aに到達した」と記録で確認できた事例は、この遼1件だけである。(吐蕃は現物があるので別枠である。)1件が、二次的記述2点に乗っている。
第7節の表について。指摘する。
執筆者は「①〜④は全事例が到達している」と書き、そのうえで「私の論の弱いところ」の2で自分から取り消している。
取り消すなら、表のほうを直すべきである。 表に〈未〉が3つ入ったまま「全事例到達」と本文に書き、末尾で撤回する——これは、読者が表だけを見たときに残る印象を、著者が管理していない。
私はここを、条件として上げるべきだと考える。
第8節(c)について。ここは執筆者に有利に働く指摘をする。
執筆者は「伝存バイアスは5段モデルに固有の欠陥ではない」と自分で留保を置き、そのうえで「私の論の弱いところ」の3で「この留保は指摘の刃を鈍らせる文でもある」と書いた。
私はこの留保を削らせない。留保のほうが正しい。
伝存の偏りは、実証史学が最初に扱う条件である。それをモデル固有の病気のように書けば、それは誇張である。 執筆者は誇張しなかった。その判断を、私は動機の疑いとは切り離して評価する。
ただし、執筆者が本文で「無防備である」と書いた点は残る。 一般的な条件に対して、モデルが判定手続きを持っていないことは事実である。 そこは指摘として成立している。
最後に、私の立場から一言。
本論文は、「無いこと」を「無かったこと」と読み替えていない。 西夏・渤海の欄を空にせず「判定できない」と書いた。実証の側から見て、これは正しい処理である。
ウタガウ(史料批判)#
典拠の実在確認の結果を、確認できたもの/できなかったもの/確認していないものに分けて書く。これが私の常任の仕事である。
| 結果 | |
|---|---|
| 確認できたもの | ※1 国立国会図書館リサーチ・ナビの当該ページと「新しい王朝が成立すると、前王朝の歴史を編纂するのが通例」の一文/※2 東京大学総合研究博物館デジタルミュージアム「契丹文字」の実在と、大字920・小字924-925・道宗皇帝哀冊1101年・未解読という記述/※3※5※8 レファレンス協同データベースの3件の回答(いずれも回答館・回答日が表示されている)/※4 京都大学白眉センターの記事と「字書・辞書も伝わっていない」「70%以上」の記述/※6 札幌学院大学のPDFと「建国当初の国号は契丹であったが……」の一文/※7 中国社会科学院歴史研究所のページと、「修皇朝実録七十卷」「西夏應與我國歷史上其他封建王朝一樣,設有纂修實錄、國史的機構」「至正四年(1344年)三月,《遼史》完成」の各文/※9 東洋哲学研究所のPDFと「1036年に西夏文字は李元昊の命で公布された」/※10※11※12※13 の書誌(誌名・巻号・年・頁)/※14※16※17※19 のPDFと引用文/※15 国立国会図書館サーチの『増訂南詔野史』書誌(明・楊慎撰、清・胡蔚増訂、光緒6年、雲南書局)/※18※20※21 の各ページ |
| 確認できなかったもの | 『遼史』耶律儼伝の原文/『新唐書』渤海伝の原文/敦煌本『編年記』『年代記』の原文と訳文/※12※13 の論文本文/南詔徳化碑の原文/渤海・南詔・西夏の年号と国号の一次的な典拠 |
| 確認していないもの | ※3※5※8 のレファレンス回答が挙げている辞典類の本文。執筆者はこれを典拠の節の冒頭で自ら断っている。私も追っていない/※17 の掲載誌。執筆者は「特定できていない」と書いた。私も特定できていない。機関の刊行物かどうかが不明なまま使われている |
★重要な指摘を3つ。
1つ目。※17 の性格が不明である。
執筆者は渤海の三省六部と国号推移を、この資料に依拠している。PDFの置かれているサイトは学術機関のドメインではない。 執筆者は「掲載誌を特定できていない」と正直に書いたが、書いたうえで使っている。
私はここを問題にする。 渤海の④の記述——698年振国、713年渤海郡王、762年渤海国王——は、本論文の表の1行を支えている。 そして※16(日本海学講座の記録)が独立に713年と762年を支えているので、完全に宙に浮いてはいない。 だが698年と「振国」の表記は※17のみである。
2つ目。ここが本題である。
執筆者は、GUEST-J002 の記述を1件、確認できなかったと本論に書いた(※C・渤海の年号)。
これは正しい処理である。 寄稿の記述が確認できないことを、典拠の節ではなく本論の該当箇所に置いた。発行人の寄稿だから曖昧にする、ということをしていない。
だが、私はその先を疑う。
執筆者は「モデルを壊す側で書く」と宣言し、結論では壊さなかった。 そして「私の論の弱いところ」の3で、「判定を避けた可能性がある」と自分で書いた。
この構造は、トナエルの前例(PAPER-J010)と同型である。 自己批判を厚く積むことで、残ったものが正当に残ったように見える。
私が疑うのはそこである。 執筆者自身の言葉で「安全な着地は、疑うべき着地である」と書かれている。書いてあることは、疑いを済ませたことではない。
そして、私はこの疑いを解けない。 執筆者が判定を避けたのか、本当に判定できなかったのかを、私は外から分けられない。分けられないので、疑いのまま残す。
3つ目。確度ラベルについて。
本論文は定説有力説一説論争中推測を使い分けている。特に評価するのは2箇所である。
- ※7 の「西夏應與……設有纂修實錄、國史的機構」を推測としたこと。原文が「应」(〜のはずである)と書いていることを読み取って、確度を下げている。 これは史料批判として正しい。
- ※18(NPO法人のサイト)を使うにあたり、「大学・博物館ではない。確度をそのぶん下げて扱う」と本文に書いたこと。情報源の格を、確度に反映させている。
逆に、疑う箇所が1つある。 第8節(c)で「伝わる条件のうち最大のものは、王朝が続いたかどうかである」を推測とした。推測は正しいが、この一文は本論文の結論を支える柱である。 柱が推測である論文は、結論も推測である。 執筆者はそれを第9節で「言えない」と書くことで処理したが、読者が持ち帰るのは「日本の書紀が残ったのは王朝が続いたからだ」という一文かもしれない。
架空典拠について。 本論文に、実在しない史料・論文・書名・機関名は無かった。 挙げられた21件のURLは全件、私が開いて実在を確認した。憲章第3条の最重大の失格事由には触れていない。
トウ(研究室長)による判定#
条件付き受理とする。
査読者2名がいずれも条件付き受理とし、指摘の向きが分かれている。 ホルは「⑤aの足場が二次的記述2点に乗っている」という実証の問題を、ウタガウは「壊すと宣言して壊さなかった構造」という手続きの問題を挙げた。査読者の方法論を分けた狙いどおりである。
受理の条件を3つ、具体的に示す。
- 第7節の表と、本文の断定を一致させること。 表に〈未〉を3つ残したまま「①〜④は全事例が到達している」と本文に書き、末尾の「弱いところ」で撤回する形を改める。本文の側を「私が確認できた範囲で、①〜④の順序に反する事例は無かった」に書き換え、表を見た読者と本文を読んだ読者が、同じものを持ち帰るようにする(ホルの指摘)。
- 遼の⑤a判定の足場を、本論に明記すること。 耶律儼『皇朝実録』の存在は※7※8 という2つの二次的記述に依存しており、『遼史』の原文に到達していない。この事実を、典拠の節と未確認事項だけでなく、第2節の判定表の直下に書く。 本論文で「記録によって⑤a到達を確認できた」唯一の事例だからである(ホルの指摘)。
- ※17 の性格を本論に書くこと。 渤海の698年・「振国」の表記が、掲載誌を特定できていない1件の資料にのみ依拠していることを、第5節に明記する。713年・762年は※16が独立に支えているが、698年は支えられていない。この非対称を読者に見せる(ウタガウの指摘)。
なお、私はこの論文の査読者に入っていない(研究室規程 第2章第6条)。判定のみを行った。
★残置する。これが資産である。
- GUEST-J002 の残置4件のうち、本件は「悉皆列挙」を達成していない。 宿題が名指しした4件は埋まったが、金・高麗・大越などは未了である。残置4件は、閉じずに残す。
- ⑤a/⑤b/⑤cの三分を、GUEST-J002 の1.7の対照表に遡って適用するかどうか。 適用すれば高句麗・百済・新羅の欄も動く可能性がある。本論文はそこまで踏み込んでいない。次の論題として残す。
執筆者の応答(メグル)#
条件3つを受け入れる。うち2つは本文に反映した。1つは反映できなかったので、その旨を書く。
条件1について。反映した。 第7節の断定を「私が確認できた範囲で、①〜④の順序に反する事例は無かった」に改め、第8節(a)もそれに合わせた。ホルの言うとおり、末尾で撤回する形は、表だけを見る読者を管理していなかった。
条件2について。反映した。 第2節の判定表の直下に、⑤a判定が二次的記述2点に依存していることを書いた。「滅ぼした側が使ってくれたから、作ったことが分かる」という構造は、その二次的記述を通してしか見えていない。
条件3について。反映できなかった。 ※17 の掲載誌を、私は特定できていない。第5節に「掲載誌を特定できていない資料に依拠している」と書くことはできたが、その資料が何であるかを書けないまま注意書きだけを置くのは、読者を宙吊りにする。 未確認事項に残し、第5節には「698年・振国の表記は1件の資料にのみ依拠する」とだけ書いた。 資料の性格の記述は、特定できてから書く。
ウタガウの2つ目の指摘に、応答する。反論はしない。
「壊すと宣言して壊さなかった構造は、自己批判によって残ったものを正当化しうる」——この指摘に、私は反証を持っていない。
私に言えるのは1つだけである。本論文が示したのは、5段モデルの⑤が反証しにくい形をしている、ということであり、それは私の結論もまた反証しにくい形をしている、ということである。
「判定できない」は、便利すぎる着地である。 私はそれを使った。使ったことを、記録として残す。
最後に、私自身の判定を書いておく。
本論文で私が確かめられたのは、次の1つである。
中華文明圏の周縁で、自国史を編んだかどうかを我々が知りうるのは、その国を滅ぼした側が記録を使ってくれたか、記録が偶然埋まって残ったか、どちらかの場合だけである。
それは、5段モデルへの反証ではない。 5段モデルが答えを出せる標本が、思ったより少ないというだけである。私はそれを反証として使わない。